狼の騎士

第五章「光射す。」 第四節

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 敵もその周りの男も、時を止められたように誰も動かなかった。それなのに、ゼルの右腕は目に見えて震えていた。顔のわからない男と一戦したせいだけではない。自分を取り巻いている男達は今度こそ、遠慮なく命を奪ってくる敵対者であることが、ゼルをこれまでにない恐怖に陥れていた。
「……おまえは」
 背を打ったのは聞き慣れた低音だ。ゼルは空いた左手で剣を引き抜き、投げ捨てるように落とした。その一連の流れに、敵兵達を縫い止めていた空気が氷解し始める。
「何してるんだ、さっさと拾え! あんたの剣だろう!」
 敵を一人ずつ数える余裕すら生まれなかった。剣一本分しか離れていないエアル兵の右手は下ろされてはいたが、いつ牙を剥いてくるかわからない。
「おい、ガキ共は全部追っ払ったんじゃなかったのか!」
 ゼルを見据えたまま、エアル兵が叫んだ。目の端でちらりと動く影がある。森と闇に紛れるようなその服装。あいつだ。破れた皮手袋から露出する傷が脈打つ。
 顔の下半分を覆う布が動いた。何か話したのだろうか。しかし彼の近くにエアル兵はいない。来るなと釘を刺したはずの若者が、こうして邪魔立てしているのだ。苦々しげに歪む目つきを見ると、舌打ちの一つでもしたのだろう。
 ふん、と目の前の男が鼻で笑う。その顔つきも、相手が年若い青年であるとたかをくくったのか、にやつき始めている。眼前の刃物が、落ち着きなくぶれているせいもあったかもしれない。
「戦場は初めてか。小僧」
 男は落とされた剣に片足を引っかけて真上に飛ばし、取って手中でもてあそび始めた。
 牽制せず、倒せばいい。わかっているのに、相手はこんなに隙だらけなのに、どうして体は動いてくれない。
 足元で小さく、引きずる音がした。後ろの男がやっと剣を拾い上げたらしい。しかしゼルの背は涼しく、立ち上がった様子はしない。思いのほか、さっきの傷が深かったのか。
「どうした。いつまでにらめっこするつもりだ?」
 悠然と腰に手を当て、ゼルをからかうように得物を振り回してくる。ゼルはその動きに注意を向けようと、剣の対象をそちらに変えようとした。
 力強い気配が背後で蠢いたかと思うと、それは左肩すれすれのところを矢のように飛び出してきた。たった今まで剣を握っていた男の手は開かれ、その胸は細長いもので、まるで串刺しにされているようだった。
「ためらうな。ここで死にたくなければな」
 頭上から降ってきたのはフェルティアードの声だった。そこでゼルは、何が起きたのかやっと理解できた。自分の顔の真横にある、今しがた得物を引いたこの腕はフェルティアードのものだ。左手だったのは意外だったが、突くだけなら彼にとっては朝飯前なのだろう。苦しげに咳込み血を垂れ流す胸をかきむしりながら男が倒れ、一緒に軽い音を立てて短剣が刺さり落ちた。
 こいつは長剣に気を引かさせ、片手に持っていたこの短剣でおれを殺そうとしていたのか。もしかして、それに気付いてフェルティアードが?
 彼の顔を仰ぎ見ようとしたが、それは叶わなかった。フェルティアードはゼルに背を向けていたのだ。しかし移動するわけではなく、大貴族は再び臨戦態勢に入ったらしい。視界にいる数人のエアル兵が構えている。
「わたしは傷のせいで自由に動けん。おまえはわたしの背を守れ。殺せずとも剣をさばく程度はできるだろう」
 拒絶を許さない口調だった。とはいえ、ゼルには拒む気など最初からありはしなかった。逃げ去り敵を引き付けるというあの案は、自分でも納得していなかったのだ。フェルティアードの命令は、ゼルの揺れる決心を固めるものだった。
「わかったよ」
 地面に足を押し付けてわずかに引き下がると、背とひじがフェルティアードにぶつかった。つられるように頭を持ち上げれば、荒風にしかなでられないようなうねる黒髪の向こうに、あの色の目が見えた気がした。
 貴族と青年、それぞれに狙いを定めた敵兵二人が駆け出す。フェルティアード側はあっという間に勝敗がついた。短剣二本でのみ応戦していた時と同じように突っ込んだのだろう。貴族の手に馴染んだ長剣に、その攻撃は撫でるという行為にも満たなかった。数度剣を重ねただけで敵兵は突きを受け流され、赤の宝石がはめ込まれた諸刃の犠牲となった。
 ゼルは苦戦を強いられていた。傷も受けず剣も奪われてはいないが、有利でもない。きっと相手が本気でないからだ。絶命に至る一撃を食らわせないのは、自分との戦闘を半ば遊んで過ごすためなんだ。そうして疲れ切ったところを、こいつは――
「代われ!」
 背中の左側を押された気がして、体を後ろへひねり回り込むように、右足を踏み出す。フェルティアードに新たにかかってきた二人目をゼルが迎えた瞬間、ゼルをあしらっていた男が断末魔の悲鳴をほとばしらせた。立場を入れ替わったフェルティアードがまたもや一撃で仕留めたのだ。脚を負傷しているとは思えない素早さだった。
 背を付き合わせたことで、二人を取り囲むような形に展開していたエアル兵達は、ものの数分も経たずに二人もやられたせいで、警戒し始めたようだ。隙を見計らうように、じりじりと間を詰めてくる。ゼルは見える範囲の男達に目を走らせた。その中に一人、違う色の軍服があった。いや、見慣れたもののはずなのに、ここでは異質でしかないそれは。
「ベレンズ、兵……!? なんでここに、それにあの人は」
 間違いない。あの時、横で笑っていた二人のうちの一人だ。当のベレンズ兵はにこりともせず、ゼルが驚怖し表情という色が抜けているのを見ても、眉一つ動かさなかった。
「うろたえるな。あれは味方ではない」
 にべもなく言ってのけたフェルティアードに、ゼルはなおも食い下がった。
「でも、無理やり協力させられたんじゃ」
「いいや、違うな。大方金に目がくらんで寝返ったのだろう。そうだな?」
 裏切ったというベレンズ兵はゼル側にいるというのに、フェルティアードは正面を向いたまま問いかけている。
 誰に話してるんだ? ぼろぼろの外套の陰から反対を垣間見ると、もう一人のベレンズ兵がいた。エアル兵のふりをしてジュセを突き飛ばした、あの男だった。まさか本当に敵だったなんて。
 ゼルが顔を背けたのを追って、エアル兵の一人が踊りかかってきた。とっさに振り激突した武器同士から、激しい高音が絶え間なく耳の中に進入し、暴れまわる。もはや手加減はなかった。下手に長引かせれば、後ろの男がとどめを刺してくるのがわかったからだろう。
 互いの死角を守る陣ではあったが、それはゼルにしか効果を発揮していなかった。背丈の差があり過ぎたのだ。がら空きになっているフェルティアードの背の上部を狙って、別の一人がゼルを無視して斬りかかろうとする。
「おまえっ、卑怯だ……」
 怒りの言葉は無駄にはならなかった。そしてその直後に起こしたフェルティアードの予想もしなかった反撃に、ゼルはこの時ほど小柄であることをありがたく思ったことはなかった。
 青年の声に、大貴族は居場所を交換こそしなかった。代わりに斬撃をかわしつつ得物を持ち替え、ひじで男を殴り倒したのだ。ゼルが己と同程度の身長を持つ人間だったらまず不可能な、乱暴でもある戦法だった。
「うわっ! あ、あんたなんてことしてるんだよ!」
 落ちかかってきた男を避け、ゼルはわめいた。どうやら、身動きまでをも奪う重傷を負ったらしい。こめかみ辺りを殴打されたエアル兵は、そこを手で押さえることもなくくずおれた。
「誇りを持たぬ者に誇りで立ち向かおうとするな。生き延びたいのなら手段を選ぶ暇などないぞ」
 また一人、フェルティアードが切り伏せる。ゼルが押されれば代わりに彼が相手をし、敵兵は地に伏す。二人と敵のあいだには次々と骸が横たわり、いまだ存命している、ほんの数分前まで優勢だった者達の進撃を阻止しているようだった。
「くそっ、そっちだ! ガキのほうを片付けろ!」
 命令を下したのは、フェルティアードと面していた元ベレンズ兵だ。逃げ腰になっていた残りの三名が、束になってゼルに襲い掛かる。四方八方からの攻撃を彼が受け止め切るなど無理に等しい。その中の一人は、例のベレンズ兵だった。
 見過ごせない一心で戦いに身を投じたが、相手を殺そうとしてくる人間と剣を交えた経験など、ゼルにあるはずがなかった。おかげで今にも体中から気が抜けそうだというのに、さらに味方だった者と対峙を迫られている。フェルティアードはああ言っていたが、そう易々と思考を切り替えられる気は少しも生まれなかった。
 だが、ここでフェルティアードが自分側に対し闘えば、指導者格らしいあのベレンズ兵が、彼の背中を断ち割るに違いない。自分がどれだけ戦闘技術に長けていようと、一人倒すまでにはそれなりの時間を要してしまう。
「耐えろ」
 それがわかっていないはずはないのに、フェルティアードがよこしたのは、たったそれだけだった。ふざけるなと言ってやりたかったが、心の中で罵る間にも一人の剣が喉元へと突き進んでくる。
 こいつを防がなければ。他二人の、脚を突き刺そうとする剣は無視し、下から跳ね上げるように得物を振り、軌道を反らす。その代償として鋭い痛みがわき腹と太ももを撫でたが、そちらにかまってはいられない。
「おい、おまえらそこから離れろ!」
 焦ったような声は、またあの裏切ったベレンズ兵のものだ。おれを殺せと言ったそばからどうしたっていうんだ。もしかして味方が到着したのか? 致命傷だけは受けまいと必死だったゼルは、剣ではない武器を握った腕が後方から伸びてきたことに、それが爆音を打ち鳴らすまで気付けなかった。
 馬鹿みたいにまぬけな驚声がゼルの口を突いて出てきた。霧に覆われたように、聞こえる物音全てが不確かだ。それに、冷たいとも温かいとも感じられない、生ぬるいようなものが頬に張り付く。嗅いだことのない異臭も漂い、反射的に閉じていた目を開かせた。
 対峙していた三人が二人に減っている。左端の男が消え、残った二人が空白になった領域の足元に目をやり、そして視線はゼルに移る。正確には、ゼルの肩口あたりで煙を吐き出している、直線に近い筒状のものへと。持ち手の部分のみしなやかな弧状になっているそれに、ゼルは釘付けになっていた。
 これが小型化した、しかし威力は極端には落ちていないという拳銃か。重厚感のある銃身と、丁寧に磨かれ滑らかな木製の銃床。握り手の先端は丸みを帯び、眩しいまでの白金に包まれていた。中間にある金属片の集合体が、おそらく発砲のための仕掛けになっているのだろう。
 フェルティアードが撃ち殺したのは、寝返った味方兵だった。迷いなく即死に近い形に追い込んだこの男の銃と手には、赤いものが細かく散りばめられている。飾りでも刺繍でもない。返り血だ。今さっき、自分の顔にも飛んできたではないか。
「わたしの手がすけば、これの用意も容易くなるというものだ。無駄だったな」
 手早く拳銃をしまうと、フェルティアードは再び長剣を手にして二人目と斬り合った。我に返った三人目は、ゼルと斬撃の火花を散らす。
 血の筋を描きながら、フェルティアードの刀身が閃いた。火器の登場に虚を突かれたのだろう。さして対等に渡り合うこともできずに、エアル兵の男は敗れ去った。
「そいつはわたしが相手する、おまえはやつを追え!」
 ほとんどの敵兵は倒し切った。残るはフェルティアードが受け持ったこの男と、エアル兵達に命じていたベレンズ兵、そして謎の男だけだ。
 確かベレンズ兵は後ろにいたはずだ。振り返るも、すでにかの人物はいなかった。ややひらけた、陽の光が大量に差し込んでいるほうへ、彼は逃げ去ろうとしていた。そこを突っ切られれば、太い樹木達の陰りが彼の姿を塗りつぶしてしまう。
「待て!」
 男の足が速まるだけなのだが、ゼルはそう口にせずにはられなかった。どうしてこんなことをしたんだ? 大貴族ともあろう人間を捕虜にするでもなく、人知れず殺そうとしたなんて。それともこの男はベレンズではなく、エアルの人間であることを偽っていたのか?
 全速力で走り出そうとした片足を、じくりと深い鈍痛が駆け巡る。ここで倒れたら絶対に逃げられてしまう。歯を食いしばり服の内を滴り落ちる血の感触を振り払い、ゼルは己の体に鞭打った。
 距離はそう離れていなく、腕を突き伸ばして斬りつけた。無論届きはしないとわかっての行動だ。突端が男の背を、紙で指を切った程度に傷つけたに過ぎない。しかし彼を戦闘に誘導するには十分なきっかけだった。男は得物を抜きながら、ゼルを真正面に捉えた。
「腹も脚もやられたのか。そんなんでおれに勝つつもりか?」
 ふざけて笑っていた男とは思えない、醜悪な面構えだった。大量とまではいかないものの、出血も止めずに動き回ったせいか、ほんの少ししか走っていないのに息が上がっている。力が抜ける、というよりも入らない。
「勝とうなんて思ってないさ」
 このまま話すだけで時間を稼げれば、どんなにか楽だろう。だが現実はそうはいかなかった。気力も体力も限界に迫っていたゼルに、男は容赦なく突っ込んできた。
(こいつ……怪我したとこばかり狙ってやがる)
 行動そのものを止めるためか、凶器は赤く変色した大腿を何度もかすめていた。思い出したように上半身も歯牙にかけようとするので、気を張っていなければならない。こちらにはそんな精力はもうないというのに。
 逃がしだけはしない。自分が倒れなければ、こいつはこの場に留まり続ける。フェルティアードが最後のエアル兵を片付けるまで粘る必要があるのだ。
 相手の突きをかわす。そうしたつもりが、刃は脇腹の裂傷をなぞっていた。文字通り身を切られるような痛みは立つ力までむしり取り、嘔気に似た呻きが喉を駆け上がってくるのを、空気ごと嚥下する。
 腕をついて屈み込んだ青年を、男は動けないものと見て早々に踵を返そうとした。それを引き止めたのは、地を這ってきた人間の手だった。
「逃がすか……!」
 左手が男の足首を万力のように締め上げる。どこからわいてくるのか、ゼル自身も驚くほどの力だ。目に見えぬ何かが、外側からその手を押してきているようにも思える。男は化け物にでも遭遇したかのような驚相で状況を見下ろした。
 剣を突き刺し、それを支点にのろのろと起立する。手を放すと男は慌しげに武器を構え直した。一度体勢を崩したせいで、顔にかかった髪には土くれが降りかかっていたが、戦意の消えない碧眼には、それすらも見えていない。
 突然、男の顔色が変わった。同時に、背後から不規則な足音がする。フェルティアードがこっちにやって来たのか。腰の引け始めていた男の進路を絶とうと、ゼルは彼を戦闘に引きずり込んだ。斬りつけられるとわかっていて背を向ける者などいない。男が応戦し攻撃を払いのけられ、足がぐらついた瞬間だった。
「伏せろル・ウェール!」
 耳元で手を叩かれたようだった。不鮮明だった全ての感覚が一挙に晴れ、その言葉の意味するところもすんなりと入ってきた。膝を折り――正確には安堵から気が抜けたせいなのだが――息を吐く。金属の球が肉を穿つ、生々しい音が聞こえたのはその直後だった。
 叫び声を上げて、男は肩を抑え得物を取り落としかけていた。それをゼルは見逃さなかった。まっすぐに立ち直すことはできなかったが、ぐらつく脚で一歩進み、ただ一心に長剣を叩き落とす。悲壮な泣き声を残して、男の武器は持ち主の手から滑り落ちていった。
 すぐさま剣先を顔面に突きつけると、男は後退するのも諦めたか、ただ見下してくるだけだった。ゼルの隣にフェルティアードが来ると、男の両目はそろそろとそちらに向けられた。
「もういい。下げろ」
 拳銃を持った腕を上げながら、フェルティアードはもう片方の手を刀身に乗せて下に押し下げた。大きな吐息と共に腕が落ちる。鞘に戻す微力さえ生まれてはこなかった。
「……わたしを殺しますか、フェルティアード卿」
 この期に及びながら、礼儀正しい物言いだが人を食ったような態度だった。銃口はしっかりと男の額に押し付けられているというのに、品のない笑みは絶えていない。
「答え次第だ。誰に雇われたか言う気はあるか」
 疲労の色は隠し切れていないが、淡々とした口調に変化はなかった。
「いいえ。何者にも口外するなという命令を出されていますのでね」
「もう一つ聞こう。おまえはエアルから回された者か」
 男はかすかに疑念の色を浮かべたようだった。
「いいえ」
 しばしの沈黙は、ゼルには永遠に感じられた。引き金にかかった指がいつ動くのかと、そればかり気にかかっていたのだ。いつ目の前で、この男の頭が破裂するのか。想像もしたくないし、できれば目を背けたかった。
 しかし、まず動いたのは指ではなく、腕そのものだった。照準を額から胸に移し、フェルティアードは沈着に処遇を下した。
「ならばおまえは生かしてやる。おまえと同じ時を歩んだ兵達、ひいては国王陛下の信頼を足蹴にした謀反人として、我らが王都の門をくぐるがいい」
 ここで罰せられ、死を宣告されると踏んでいたらしい裏切りのベレンズ兵は、驚愕と、これから襲い来るであろう羞恥に表情を硬直させた。しかし意外な形で、男の予想は叶えられることになってしまった。
 空気を切り裂き烈風を纏い、剣よりも細長いものが男の首筋に突き立った。金の目が見開き、青の瞳が呆然と、その事態を働かない頭に送り込んでいる間に、それは勢いよく引き抜かれている。鮮烈な赤色が吹き出すのとは対照的に、だらしなく開いた男の口からは何の音もこぼれてはいなかった。
「な……」
 仰向けに倒れた男を目で追ったのはゼルだけだった。開けた視界、高い位置にある木立ちに身を潜めるように立っていた襲撃者に、フェルティアードは一瞬で狙いをつけていた。引き金が引かれ、弾丸が風を食い破りながら猛進するも、それが傷つけたのは堅い幹のみだった。
「……逃がしたか」
 青い闇に溶けていった黒装束の男を、フェルティアードは追おうとはしなかった。腰に吊っていた専用の嚢に銃を戻し、首を射抜かれた男に目を落とす。
 淀み虚ろな眼球を隠す力も、まぶたには残されてはいなかった。大地は大量の血液を吸い込み、赤黒い染みがただ広がっていく。男に寄り添うように落ちている矢には、太く編まれた紐が結び付けられていた。
 生きた人間を二人だけ有した森の一角には、穏やかな風が巻いていた。一人が脚をひきずり、息絶えた兵達を見回り始める。もう一人はその場に佇んでいたが、やがて四肢の疲労が体を占め、両膝をついてしまった。
 どれだけ血を流したのだろう。本格的な戦に比べれば、こんなものはしょうもない小競り合いだ。その程度でも、ゼルにとっては敷居が高すぎたらしい。
 少しでも動くと、刃の欠片が埋められてるみたいに痛んでくる。脚の怪我から垂れ落ちた血が革長靴に溜まっていて気持ちが悪い。浅かったが、激しく動いたせいで右手の傷からも血が出ている。
「いつやられた」
 剣を引っかける握力すら失っていた右手。他人のようにそれを眺めていたゼルにとっては、頭を持ち上げるのも一苦労であった。目に入った鮮血に色づいた男の下穿きの片方に、つい眉をしかめてしまう。
「これ?」
 腕を上げようとするも、指先しか動かなかった。喉を震わすのも面倒で、言葉遣いはさらにぞんざいになる。フェルティアードはその返しに頷き、「そうだ」と肯定した。
「剣を絡め取る動きでなければ、その場所に傷は受けんはずだ。おまえは一度も剣を落としていないだろう」
 さすがは歴戦の軍人といったところか、ゼルの行動はすべて把握していたようだ。
「さっきの真っ黒男に、ここに来る途中出くわしたんだ。そん時あいつと闘って、剣を取られて斬られた」
「……なぜ来た。命が惜しくはないのか」
 ゼルは困惑したしかめっ面で、妙なことを言い出した貴族を見つめ返した。
「来なくてよかったっていうのか? 一人で敵に捕まって、あげく殺されそうになってたってのに、見て見ぬふりでもすればよかったのか?」
 落としていた長剣をようやく拾い、鞘に収めながらのろのろと起き上がる。
「おれはベレンズの人間だ。国を支える一人であるあんたを助けるのに、命を張らないでどうしようってんだよ」
 まったく、大貴族相手になんでこんな当たり前のことを言わなきゃならないんだ。
「異なことを言うやつだな。おまえはわたしが好かんのだろう」
「ああ、嫌いさ。あんたなんか大っ嫌いだ。でも仕方ないだろ、なんせあんたは大貴族様なんだからな」
 皮肉っぽく言ってやったが、たいした反応は得られなかった。本当に理解できない男だ。高価な石像みたいにお高くとまって、何を考えてるかわかったものではない。
「あと一つ言いたいんだけど」
 こずえを揺らす風音に混じって、質量を感じさせる膨大な気配が近づいている。
「おれがあんたを助けたことについて、なんか言うことないのか?」
 かしこまってもらおうとは思っていなかった。ただ一言、短くとも口にしてくれれば。
 だが、黒い髭に縁取られた唇が開くことはなかった。ゼルが望む言葉を発するのを、迷っているのか恥辱と感じているのか、冷めた目からは窺い知れない。ゼルは呆れて息をつき、
「まあ、無理強いはしないけどな。目下のやつには頭下げたくないんだろ」
 そう言った時には、複数の足音は明瞭になっていた。
 先頭をひた走る金髪の青年が手を振っている。ゼルは精一杯の笑みを作って、彼らを迎えた。