狼の騎士

第五章「光射す。」 第三節

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 強い陽光ではなかったが、つい十数分前に通った坂を登っていく若い兵達は、居残った湿気も相まって汗をたらし始めていた。足の速い人間はいないため彼らはさして急ぐこともなく、思い思いの速度で陣営を目指していた。
「それにしても、あの兵士もひどいよな」
 突然声をかけられ、足場ばかり見ていた顔を上げたのは、かの兵士の犠牲になった青年だ。変形する土を踏み固めながら話しかけたゼルは、彼のほうに首を巡らしていた。
「ふざけるにもほどがあるよ。あまり気にしなくていいからな、きみが悪いんじゃないし」
 横にいたエリオも、ゼルの言うことに同意する旨を送る。
「ありがとう。でもきみ、すごいよな。正直なところ、陣営に戻れって言われたことより、きみがフェルティアード卿に言い寄ったことのほうに肝を冷やしたよ」
 心から感心したような言われように、ゼルは疲労からきたものとは別種の汗を感じた。こうは言ってくれるものの、きっと命知らずなやつだと思われてるんだろうな。
「あの方があそこで怒らなかったのも不思議で。前にもあんな風に話したことがあるのかい?」
「ああ、まあそんなところ……」
 その続きはゼル自身が発した、本人も予期していなかった悲鳴に取って変わられた。体重をかけた足の下――崩れないよう固めていたはずの土が、ゼルの靴を乗せたまま斜面を滑ったのだ。
「ゼル!」
 つま先を引っかけないよう注視していた木の根が、意外なところで役に立ってくれた。ゼルはとっさにそれをつかみ、体まで転げ落ちることはなかった。全面的に被害を受けたのは衣服のみだ。
「大丈夫か? 足ひねったりとかは」
「ん、してないよ」
 エリオに引き起こされ、胸にこびり付いた土と草を払い落とす。再び登りに挑もうとした時、一人があれ、と踏みとどまった。
 例の青年だ。彼は下り道を見下ろしている。ゼルとエリオが先を辿ると、緑と茶の風景にはおよそ似つかわしくない物体がぽつんと横たわっていた。
 目を凝らすまでもなかった。それは兵士が身分証として所持する札だったのだ。誰かが落としたんだ。ゼルはすぐに早足で下ったが、その短い道中でもしや、と一つの考えがよぎる。拾い上げ名を記す文字列を解して、その考えが当たりだったことを悟った。
(やっぱり。おれのじゃないか)
 転んだ時、ポケットから逃げていったらしい。フェルティアード達の帰還時に見つけられもしただろうが、これが原因でまた目をつけられるのはまっぴらだ。
「心配ない、ぼくのやつだったよ。二人ともちゃんと持ってるか?」
 ひらひらと振って、ゼルは声を張り上げた。服を探る彼らを見ながら、注意深く斜面を歩く。
「失くすと再発行に手間がかかるっていうしな」
「そうらしいね。ぼくはほら、この通り。ジュセは?」
 彼がジュセか。自分が記憶していた名前で合っているのかまだ不安だったゼルは、エリオがためらいなく口にした名を聞いてほっとしていた。しかし一向に札を取り出さない彼に、自然と眉が下がる。そうたくさんポケットがあるはずもなく、彼は特にある一箇所を何度も探っていた。
「もしかして……落とした?」
 まるで、ジュセの札が一人で歩き出していったのを目撃したようなエリオに、声もなくジュセは頷いた。
 ゼルでなくとも、三人の脳裏にはたった今後にしてきた敵陣が浮かんだだろう。帰れと言われたばかりで引き返すのに、抵抗を覚えなくもなかった。だがあれは、王都で身分を表すことのできる唯一の品だ。
「さっきので落ちちゃったんだな。ジュセ、ぼくも行って探すよ」
「い、いいよ! それに、今戻ったらフェルティアード卿が」
 命令に背くくらいなら、札は諦めるというのだ。よく考えれば、フェルティアードがまだあの一帯を歩いていれば、ジュセの札は見つかるかもしれない。だが見つかったら見つかったで、管理がなってないだのと叱咤が飛ぶのが目に浮かぶ。
 それなら、同じ注意を受けるにしても、おれ達が行って探したほうが確実だ。遠慮するジュセを納得させるよう、ゼルは慎重に言葉を選んだ。
「大丈夫だよ、命令違反じゃない。おれ達が陣に戻るために必要なことなんだから。それならあい……」
(……つ、じゃなかったな)
「あの方もわかってくれるさ。なあ、エリオ」
 無理やりともとれるこじつけだったか。ゼルが見たエリオは呆けたようになっていた。その表情がゼルにも移る頃、エリオはやっと笑顔になった。
「うまいこと考えるなあ。あの方もそれにまで反論はしないと思うよ。それとゼル、ジュセ。ぼくも行ってあげるよ。数は多いほうがいいだろ」
 札の所持者の意見も聞かず、エリオは先に行っていた仲間に向け、自分達は一旦フェルティアード卿のところへ戻ると伝えた。札のこともだ。誰が落としたとは言っていなかったが。
 わざわざ付き合ってもらってありがとう、と何度も口にするジュセの肩を叩きながらも、ゼルは道を取り巻く林や、細い草木に目を光らせていた。敵がこの辺りにいるという可能性はまだあるのだ。それに敵でなく、獣が襲ってくることも。
 奥まったところにある木の枝が揺れ、ゼルの視線はそちらに注がれた。風ごときでこんなに神経を尖らせるなんて、気にし過ぎだろうか。苦笑して、向こうから逃げ出すような小動物の気配すらないことを認め、下り坂に専念しようとする。
 その瞬間、視界の隅を何かが横切った。
 植物が風にあおられたのではない。確かに物が移動し、消えた。あまりにも小さかったので、それがここからかなり離れた位置にあるらしいということは、振り返り切るまでに推測していた。
「ゼル? どうしたんだ」
 制止したゼルにその理由を聞いたのはエリオだ。答えたゼルは、重ねて飛び込んできた情報に己のまぶたが持ち上がっていくのを感じていた。
「人だ。それも複数。頭が見えた」
 二人とも驚いたように声を上げ、ゼルに倣って林のあいだに首を伸ばした。フェルティアード達が場所を移動しているのか。ここからはもう影も形も見えないが、ゼルよりも身長のある彼らはなんとか見届けたらしい。
「おかしい。茂みのせいもあって一瞬しか見えなかったけど、あの色はエアル兵じゃ」
 なんだって、と叫ぶ間も作らず、エリオは信じられないことを口走った。
「それにあれは……見間違いであってほしいけど、あの外套は、フェルティアード卿……」
 その事実は、ゼルから声という音を出す力までをも奪っていた。この新緑と木の幹、土の色ばかりの光景の中で、深い青は染まることはない。エリオの目にしたものは、おそらく正しいだろう。
 敵兵と、こちらの兵を指揮する貴族が共にいる。どういうことだ? 考えられるのは二つ。潜伏していたエアル兵にフェルティアードが捕らえられたのか。……それとも、フェルティアードはエアルと通じていたのか。
「エリオ、今の人達はどんな風だったんだ? その、話し合ってたかどうかとか」
 エリオは顔を曇らせ、
「顔までは見えなかったけど、エアル兵にフェルティアード卿らしい人が連れて行かれているって感じだったよ。会話してる様子はなかった」
 そう教えてくれた彼にありがとうと言って、ゼルはあの集団が消えた先を眺めた。
 後者の可能性は低そうだ。そうであったら大問題どころの話じゃない。性格は好きになれないけど、シャルモール卿から聞いた昔話が本当なら、あの貴族は国を売るような真似はしないはずだ。
 彼が敵兵に捕まったというなら、一緒にいた兵士やギレーノはどうなったのだろう。そこまで行き着くと、ゼルの背筋を冷たいものが駆け上がった。この状況で、捕虜として価値があるのは指導者だけだ。ならばそれ以外は生かしても無用のもの。
(くそ……。じゃあこうなったら)
 道なき道を進み始めたゼルに、二人は半歩遅れて慌てたように後に続いた。同行するためでなく、止めるために。
「お、おいゼル! 何するつもりだ!」
「見つかったら殺されるぞ!」
 回り込んで押し留める仲間を、ゼルはやや乱暴にどけようとする。
「エリオ、きみは見たんだろ? 今ここに来ているベレンズ兵、全員を束ねる最高指揮官がとっ捕まったんだぞ。助けないでどうするっていうんだ」
「それはそうだけど、せめて陣営の誰かに伝えないと」
 ギレーノ達の存在を口にしなかった辺り、エリオも最悪の事態を予想していたようだ。彼の申し出に逡巡した時、横でジュセが言葉を伴わず、引きつったように短く叫んだ。もしや気付かれていたのか。ゼルとエリオが前方に目をやると、そこには影が一本つっ立っていた。
 そう錯覚したのも無理はない。その人間は緑にまぎれるためか、身に纏っている衣服はほとんどが黒やそれに近い暗褐色ばかりかった。長い布で頭部をすっかり覆っている。口元も薄めの布地でふさいで目元しか露わにしていないのは、人相を隠すためか。首すらも見せないローブで体を包み、しかし腰の武器はゼル達に見せ付けているようだった。長さはないが、幅のあるわずかに湾曲した刃物。
 この場において、味方でないのは姿からも明白だった。それ以上に、ささやかな木漏れ日も霞ませる空気が、三人を包んでいた。フェルティアードとは別格、いや別種のそれは地表を這い、無数に首をもたげ爛々と狙いをつけられている気がした。
「無駄だ。ひけ」
 追いかけるのが無駄だということか? くぐもった声は単調で、まるで人でないようだった。これなら、フェルティアードの喋り方のほうがまだましである。少し踏み出そうとして、ゼルは自分の右手が剣の柄にかかっていることにやっと気付いた。この相手はどうやら、自分と闘うことも無駄であるとも言ったらしい。
「おれはこの先に用があるんだ。どいてくれ」
 ゼルは剣を抜かなかった。こちらは一戦交える気はないのだ。この男は、下手に触れれば攻撃をしてくるのはわかっている。意味もなく挑発しても不利だ。
 こいつはどう出る? ただ道をふさいで行く手を阻むのか、力ずくで押し返すのか。暗く沈む目は、対する青年が見えているのかどうかさえ怪しい。
「死に急ぐか。ならここで殺してやろう」
 そう言うが早いか、男は腰の剣を抜き放った。微動だにしなかった痩躯が揺れ、それが疾走のための動きだと知った時には刃がうなりを上げて水平に振られている。そして長髪の青年の首に狙いを定め切り裂こうと突風の如く走った。
 激音。肉を斬る音に代わって響いたそれと、寸前で武器を止めた小柄な兵に、黒衣の男は黒瞳を見開いた。しかし青年が片手で耐え切ることなどできず、次の瞬間にはゼルは大きくよろめいた。腕はおろか、衝撃は肩にまで上っていく。経験したことのない痛みに反射的に目をつぶったが、今ほどに隙を見せたら危険な状況はない。痺れる手に力を入れ、今一度碧眼に男を映ずる。
 両隣にいたエリオとジュセも、戦意を露わにした男に対抗しようと、それぞれの得物を彼に向けていた。男はそれらに目もくれず、ゼルだけを攻撃目標にしているようだった。傾斜のついた足場は悪く、相変わらず木の根が無遠慮にのたくっている。ただでさえ力の差がわかっているというのに。
 男の剣が、叩き切るように空中を薙ぐ。その斬撃に巻き込まれまいと剣を振るうが、防戦一方のままだった。相手の隙が見つからない。見つけられないだけなのか。本当は攻撃できる箇所がわかっているのに、怖がっているだけじゃないのか。
 男の目が、蔑むように細められた。
「あまり長々と遊んでいる時間はないんでな」
 胴体に喰らいつこうとしていた刀身が、標的を変えた。今までと違う動作に、ゼルは腕を引いて応戦する。首でも胸でも、腕でもない。この男はどこを狙ってるんだ?
 痺れは徐々に手に溜まり、袖に鉄塊でも仕込まれたかのように重い。疲弊させて、剣を落とさせるつもりだな。そして自分を追う気力を削ぐ気だ。
 だがゼルのその考えは間違いであった。
 相手の切っ先が、ゼルの手元にねじ込まれてきた。試験の際、剣を奪われた時の動きに似ていたが、あれは持ち手に一切の傷をつけないように配慮されていた。これは違う。裂傷を加えようとも構わず、ただ乱暴に得物をもぎ取ろうとしてくる。研ぎ澄まされた刃の部分が皮手袋を裂き、絡められた剣もろとも手首をねじられ、うめき声を上げたゼルは手を放さざるを得なかった。
 払い落とされた剣が地面に突き刺さり、そばにいたジュセが飛び退く。ゼルは男を睨んだが、彼は己の武器を振りかぶっていた。
 相手の剣を奪ったっていうのに、なぜこいつは攻撃をしてくるんだ。つかの間の思考停止が、落ちてきた一撃を避けるという行動に歯止めをかけていた。
「ゼル!」
 強引に割って入ってきた影に押され、ゼルは後ずさった。同時に響く、刃同士がけずり合う音。
 エリオだ。一対一の決闘ということで手を出していなかった彼が、とうとう傍観をやめたらしい。
 よく考えれば、男もゼルも決闘の宣言などしていない。ベレンズの貴族や兵ならば暗黙の了解ともなることではあったが、この男はベレンズの者かどうかもわからない。たとえそうであっても、決闘の規則を遵守する人間ではないのだろう。その証拠に、彼は一方的に闘いを挑んできたではないか。
 跳ね飛ばすには至らなかったものの、エリオは男の腕を大きく退かせた。いまいましげに渋面を作ると、彼は距離を取って静かに剣を収めた。
「おまえ達の容姿、しかとこの目に刻んだ。これ以上進めば命はない。応援を呼んでも同じだ。時を置かずして死ぬものと思え」
 呼応するかのように、手袋と一緒に斬られた手の傷が疼いた。そう深くはないが、表面を取り付いて離れない、長引きそうな痛み。視線を落として傷の具合を見てから、その手を強めに抑えて男を見る。しかし、彼の姿はすでになかった。
「……どうする、ゼル。深追いだけは危険だと思うんだけど」
 剣を鞘に戻し、エリオが振り返る。ゼルは、ジュセが引き抜いてくれた自分の得物を受け取ったところだった。折れてしまいそうな大きな傷はない。根元から先端までを丹念に見上げ、「よし」と呟くと抜き身を引っさげたまま歩き出した。
 声もかけられなかった二人は、森の奥へと突き進むゼルに目を剥いた。
「ゼル! 死にに行くつもりか! あいつが言ったこと聞いただろ」
 まず叫んだのはエリオだった。追走は避けるべきだと言ったそばから、友が単独行動をとろうとしているのだ。無理もない。
「ああ、聞いたよ。じゃあエリオは黙って陣に帰るのか?」
「そ、そんなことはしないよ。ぼくらが追いかけたところで、力にはなれない。味方を呼んだほうが確実だ」
「それがあいつに知れたら、殺されるんだぞ」
 命が惜しければ見て見ぬふりをしろ。本気で殺しにかかってきた男は、そう言ったのだ。主に後をつけられることを防ぐためだったのだろうが、味方の加勢まで抑えてきた。人数が多いと、あいつらにとってはやっかいなのだ。
「あんなの出まかせだ。ぼくは陣営に戻って知らせてくる。だからゼル」
「ならなおさらだ。おれが追わなきゃ、あいつらがどこへ行ったかわからないじゃないか」
 ゼルは笑ってナイフを取り出し、エリオとジュセに見せた。
「おれが通ったところの木に、こいつで傷をつけていく。それを目印にたどって来てくれ」
「馬鹿な真似はやめろ! きみ一人でなんか行かせないぞ」
 怒りに等しい大声にも、ゼルはひるまなかった。
「いや、それは断るよ。エリオ、きみは陣営に戻って、ジュセには念のためにさっきの場所に行ってほしいんだ。もしかしたら生きてる人がいるかもしれない。きみの落とした札もあることだしね」
 それぞれの役割を告げられ、二人は困惑したようだった。
「大丈夫、追っかけるだけだよ。見つけても飛び出さないようにする。おれなら小さいから気付かれにくいだろ。髪はちょっと目立つかもしれないけど」
 ゼルは肩に落ちていた自分の髪をなでる。エリオが「そういう問題じゃ」と言いかけて、結局その言葉はしぼんでいった。
「……わかった。きみの言う通りにしよう。ジュセも大丈夫だよね」
「も、もちろん」
 ジュセも了解したのを見届けると、ゼルは身を返して、あの集団が向かったであろう方向を目指して緩やかな傾斜を駆け下りた。
「ゼル! 無茶はしないでくれよ!」
 姿が見えなくなる寸前のところで、ゼルは腕を伸ばし、大きく振って見せた。
 ぬかるみが幸いして、地面には先ほどの男の足跡らしきへこみが残っていた。通り過ぎる木の幹の皮を大きめに削りながら、人影を探す。いつどこから敵が出てきても応戦できるように、右手には剣を握ったままだ。
 どこまで行ったのだろう。人の声も気配もない。おかげで、なんともない風の音や鳥のさえずりに大きく反応してしまう。しかし、人の通った跡にもとれる痕跡は、まだ先へと続いている。土色ばかり凝視していて目まいを起こしそうだ。
 十何本目かもわからない木に短剣を突き立てたところで、ゼルはふと足を止めた。彼らを見つけられない不安から、露ほども浮かばなかった考えが導き出される。あの男は――フェルティアードは、本当に必要な男か?
 少なくとも同期の兵は、あいつを心から尊敬してはいない。ただ怖いから、当たり障りのない言動でやり過ごそうとしている。そのうえ、あいつ自身もおれ達に対しあの態度だ。いくら鍛錬に励もうと、労いの言葉はない。信頼も期待もされないから、おれ達も――
 ゼルの頭が跳ね上がった。誰かが同じことを言っていた。信頼も期待もしない……いや、できないと。あれは確かゲルベンス卿だ。フェルティアードの真意を聞いた時、彼はそう答えてくれた。
 だから、か? 何かわけがあるから、冷たく突き放すようでも仕方ないと?
(……同情? そんなもの、あいつにしてやるか!)
 力任せにつけた目印は、ここに来るまでのものよりもいびつな形に削られた。
(おれはおれにできることをするまでだ。おれ達が嫌な気分になってるからってだけで、ベレンズにいらない人間だと決め付けるのか? 何をふざけたことを考えてるんだ、ジュオール・ゼレセアン。このまま何もせずに逃げるなんて、そんなことをしでかすのは卑怯者だけだ!)
 強い風が真正面から吹きつけてくる。それはゼルの髪をなびかせ、離れた地のかすかな音を、彼の耳にそっと差し入れた。
「! 剣の音……?」
 ゼルは走り出した。次第に近づくその音だけを頼りに。もはや足跡などは眼中にない。そんなものよりも正確な証拠を掴んだのだ。
 右手側が徐々に開け、ゼルのいる場所がやや高くなっているのがわかった。身長の低い彼でも、樹木の根元が見下ろせる。崖のように切り立ってはいなかったが、直角に近い傾斜がかかっていた。
 その低い土地に、ゼルはきらりと輝くものを見つけた。一瞬迷ったが、安全な道を選んで回り込むには時間がかかる。細長いそれは剣であることはわかったので、誰の物なのか把握したかったゼルは、勢いに任せて滑り降りた。
 途中、体重移動の加減をし損なったゼルは、引っ張られるように頭から平地に落ちてしまった。凄惨な叫びになるはずだった音は、苦悶の響きに取って代わられた。上手に一回転したといっても、耐え難い痛みにさいなまれることに違いはなかったのだ。土は乾いていたので、髪も顔も泥まみれになるのだけは避けられたようだ。
「いっ……てえ」
 頭部やひじをさすりながら、ゼルは立ち上がって剣のそばまで歩み寄った。複雑に入り組んだ装飾が、柄と刀身を隔てている。中央には赤い石が灯っていた。どう見ても一兵士が持つには凝り過ぎている。ギレーノかフェルティアードしか、ここまで造形にこだわった剣は持てない。
 エリオはフェルティアードらしき人物を見た、と言っていたが、ギレーノまでは言及していなかった。そうなると、この剣はフェルティアードの? しかしこれでは、フェルティアードは今主要な武器を持っていないことになる。
 また金属音が聞こえた。近い。ゼルはためらわずに、美しいつるぎを空の鞘に差し込んだ。
 数歩進んだところで、林のあいだから動くものが見えた。とっさに太めの木に身を隠し様子を窺う。
 兵士が数人。見慣れぬ薄い青の軍服だ。皆剣を手にし、同じほうを向いている。彼らの目線を追ったが、手前の木の影が邪魔し、誰がいるのかはわからない。しかし、ゼルには予想がついた。黒のような青い大きな布地が揺らいだのまでは、邪魔しきれなかったのだ。
(おい、まさかあそこにいるのは)
 兵士の一人が突きを繰り出し、相手はそれを防ごうと動く。そこへ別の一人が剣を向けた。二人目の防御まで間に合わなかったらしく、一人で大勢を相手にしていたその人物の脚を手ひどくえぐったようだった。後退し、膝を折った男は、間違いなくフェルティアードだった。
 目の前のことが信じられなかった。やはりエアル兵は近くにいたのだ。やつらの闘い方から見ても、正々堂々と対する気はないらしい。人数が多いのをいいことに、隙を突いて脚をやるなんて。あのフェルティアードでも、多勢に無勢となれば長くは持たない。
 エリオが順調に味方に伝えられたとしても、今すぐ来ることはあり得ない。だがここで自分が出て行っても、すぐに片付けられて終わりだ。いや、ここは剣だけを渡してその場から去れば、半分はおれを追いかけてくるかもしれない。
 そんな案を思いついた瞬間、ゼルはあることに気付いた。膝をついたまま、フェルティアードが動きを見せない。兵士が一人、すぐ前に立っているというのに。
 フェルティアードは両手に短剣を収めていたが、あの距離では防ぐには近すぎる。兵士が剣を引くのが、ひどくゆっくりに思えた。
 殺される。皮手袋の上から爪が食い込むほど、ゼルは石のように拳を固めた。足音も茂みを掻き分ける音も構わず、一直線に走り抜ける。対峙した二人の隙間を埋めるように地面を蹴り飛び入ると、敵の剣に自分の武器を叩きつけた。
 乱入者に驚いたのか、敵の兵士は剣技など何もない力だけの衝撃に負け、得物を取り落としている。ゼルはそんなことに一喜一憂する間もなく、剣先を敵兵に突きつけていた。