狼の騎士

第五章「光射す。」 第二節

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 危ない、と叫ぶ暇すらなかった。駆け出したが到底間に合わない。彼をかばおうとしていたゼルは、刺される覚悟で腕を伸ばした。だがその腕が届く前に、彼はぐらりと後方に倒れている。
 やられたのか。一瞬、乱入者の剣先が血に濡れているのを幻視した。しかしその兵は剣など手にしていなかった。
 嫌な音を立てて、襲われた新兵が地面に尻餅をつく。その時には、警戒していたはずの二人の兵が大笑いしていた。無様にも両手を泥に埋もれさせている彼は、周りよりもだいぶ遅れて状況を理解したことだろうが、ゼルは敵だと思った男をまじまじと見て、馬鹿らしく感じながらも胸をなでおろした。
 高らかに死ね、などと宣言してきた男は、はぐれたのかと思われていたベレンズ兵その人だった。顔を覚えていたわけではない。ベレンズの軍服に身を包んでいたからだ。フェルティアードや幹部兵と比べると金属の装具が目立つそのいでたちは、横で笑っている二人と全く同じものであった。
 剣の光ったのが見間違いだったという証拠はなかった。確かにあの瞬間、彼は剣を差し向けていた。どうやらそれは手の込んだいたずらだったらしい。動けなくなっていた新兵ばかりを見ていたのでゼルはわからなかったが、このたちの悪いベレンズ兵は、ぎりぎりのところで剣を収め、代わりに彼を突き飛ばしたのだ。いや、つついた程度だったかもしれない。標的になった彼の足を掬うのに、そこまでの腕力は必要なかったのだ。
「おいおい、消えたと思ったらおまえは。何やってるんだ」
「若輩をからかうにも度が過ぎるんじゃないか?」
 言うことは最もだが、笑いながら、というのがゼルには不快だった。心から当のベレンズ兵に注意しているようには見えなかったからである。
 なにも脅かすことはないだろう。ようやく立ち上がろうとした仲間に、ゼルは手を貸した。それを助けるように、近くにいた数人もよろめく肩を支えたり、声をかけたりする。
 しかし、いずれはこうして馴れ合うこともなくなるのだろう。これから先、どのぐらいの頻度、規模で戦が起きるかはわからない。どんな状況になろうとも、手柄を立てるためには彼らも好敵手となるのだ。
 それならばせめて今だけ。今日一日だけでも、お互いを思いやってもいいだろう。まだ楽しげに笑う三人を眺めて、ゼルは自身がしぼんでしまいそうなため息を吐いた。
 笑い声が聞こえたのか、フェルティアードと幹部兵が歩いてきた。空気を震わせていた三つの音が、はたと止まる。
「やかましい奴らだな。ここは宴会場ではないぞ」
 今回ばかりは、フェルティアードに大賛成だった。硬く重い低音は、相変わらず容赦がない。もっと言ってやってくれと心の中で押したが、それは三人のうちの一人の進言によって、あえなく阻まれてしまった。
「これは失礼致しました。実は今この者が……」
 彼はたった今起こった、彼らにとっては面白おかしいらしい事件を述べ上げた。話の途中、フェルティアードは新兵達を一瞥した。しょうもないいたずらの餌食になったのは誰だったのか、確認したかったのだろう。彼ほど観察力に優れているはずの者でなくとも、一人汚れに汚れた服と外套の青年がいれば、推測するのに苦労はなかったはずだ。
 フェルティアードは兵の口が閉じられる寸前、歯を見せ頬を歪めながら、呆れて物も言えないという風に空気だけを吐き出した。
「ふざけている暇などないだろう。士気を乱す邪魔者は早々に引き返してほしいところだが、今は数が要る。二度と馬鹿な真似はするな」
 緩んだ笑顔はどこへやら、三人は足並み揃え承諾の台詞を発した。一人だけ声が際立って明瞭だったのは、当然と言えば当然だ。ゼルはその一人の顔を汗が伝っているように見えた気がした。しかし、肝を冷やすほど焦ればいいと、彼のことをよく思っていなかった節もあったせいだろう。強張っていたものの、その額にも頬にも、汗などにじんでいなかった。
 暗い青色の外套が翻り、金色と見紛う瞳が新兵に向けられる。こんなことでひるむなどけしからんとか、そんなお小言でも飛ぶんだな。予想できていれば、この男の厳しい口調などそう刺さってくるものでもない。
「おまえ達、今すぐに陣営へ戻れ。これではただの足手まといだ」
 お小言どころではなかった。今のは本当に自分達に向けられたものかと疑ってしまったゼルは、フェルティアードの視線を追っていた。しかし彼は、あの三人の兵にしっかりと背を見せている。この命令の対象が、兵として初めて戦場に出た者達であったことは明らかだった。
 突然の退陣を命じられた彼らは、その事態についていけていないようだった。誰かがどういうことですか、とおそるおそる言いかねない。この男ならそれに答えず、帰れと言うのもわからないのかと、さらにのし掛けてきそうだ。
「今さらなんなんだ、来るかどうか聞いたのはそっちじゃないか」
 その重圧を避けようと、ゼルは先手を打った。義務なら文句はないが、自分で募っておいてこの場を去れとは、あまりに勝手過ぎる。きっと全員が思っていて、だが言い出せないことだ。
 皆が恐れるならおれが、という思いがなかったわけではない。それよりもゼルは、自分の意見としてフェルティアードに口を出さずにはいられなかったのだ。
 しかしゼルは、何よりも大きな失敗を犯していた。数え切れぬほどの視線を感じ、ゼル自身もそのことに嫌でも気付かされ、心内毒づく。
 今おれは、誰を相手にしてあんな話し方をした?
 あの時は一対一だった。会話を遮る人はいなかったし、いたとしても状況を知った人物になっていたはずだ。でも今回は? 誰も知らないんだ。おれと彼のあいだに起こったことを、エリオでさえも。
「ゼ、ゼル……! ちょっと今のは」
 脇にいたエリオが、前兆もなしに舞い降りた静けさに溶け込むような声で囁く。相手は大貴族で、しかも最も位が高いのだ。ゼルの意見が通る以前の問題で、この態度云々で倍になって返ってきてもおかしくはない。
 誰も彼もがはらはらとした様子で、ゼルとフェルティアードを交互に見る。怒りを露わにしているゼルを見下ろす大貴族は、いつも通り不機嫌そうではあったが、それだけだった。いくら表情に乏しいといっても、こんなにもなってない口の利き方をされれば、何らかの変化はあるだろう。そう踏んでいたらしい大多数は、逆に面食らったようだった。
「ここまで腰抜けだとは思わなかったからな。とっさの対応もできんとは、敵が現れた時に邪魔になるだけだ」
「それなら、彼だけ帰してやればいいだろう。どうしておれ達まで戻らなきゃならないんだ」
 視線が合った。ゼルは今の発言が、全体ではなく自分に対してのものだと解した。何より、この言葉遣いに突っ込んでくるかと構えていたのだが、彼はもう気にしていないのか。
 それならそれでと、ゼルは一瞬よぎった後悔を無視し、同じように理由を問いただしていた。突然のことに動けなくなった彼は仕方ないにしても、全員帰されるのは腑に落ちない。
「おまえ達の力量など、一人見れば十分だ。敵兵どころか、獣に食い殺されるのが落ちだろうな」
 勝手なやつめ。でもおそらく、他のみんなの腹は決まってる。なんせ隊の指揮者が言うんだ、黙ってあの坂道を上るんだろう。
「おれは残ります。自分で行くことを決めたんだ、人間だろうが獣だろうが、命を危険にさらす覚悟はできてる」
 けれど、おれはそう簡単に諦めないからな。誰でもあんたの言いなりになると思ったら大間違いだ。
「いいや、残ることは許さん」
「あんたは兵士の一人も信じないのか!」
「戻れと言うのがわからんのか」
 もう一言言わせれば、確実に大声になっただろうな。ゼルがそう読み取るぐらいに、フェルティアードの声は膨らんだ苛立ちを押さえ込んでいるように聞こえた。
「……失礼」
 その引き金にしようと目論んでいた続きを、冷水を浴びせるように、しかし柔らかい物腰で遮ってきた者がいた。ゼルの肩にそっと手を乗せてきた彼は、フェルティアードから離れたところで控えていた、あの幹部兵だった。
「言いたいことはわかるよ。でも、今回はあの方に従っておいたほうがいい」
 比較的歳が近そうに見えたからだろうか。大貴族をよく知った同年代の友に、的確な助言をもらったような気分だった。
「すみません……」
 わざわざ割って入ってきた彼にまで、当たり散らす気にはなれなかった。謝りながらあんたに言ったんじゃないぞと、フェルティアードを睨んでやる。向こうは興味を失くしたように、ゼルを見てすらいなかった。
 なりを潜めていた森のざわめきが、張り詰めた緊張をほぐしていく。フェルティアードは三人の兵についてくるよう合図し、まばらに散っていた新兵達のあいだを突っ切って、元敵陣へと引き返していった。若い幹部兵はそれを見送ると、ゼル達に陣営へ戻るよう言ってきた。
「フェルティアード卿の言われた通りだ。向こうでは自由にしてくれて構わないからね」
 ここで拒んだところで、あの男が折れるわけがない。何より、眼前の彼の厚意を無下にしたくはなかった。
「あの、失礼ですが」
 お名前を、と言い出すのに間が空いてしまった。その空白に、相手はゼルの意を読み取ったか、求めていた答えを口にしていた。
「ギレーノだ。そう呼んでくれて構わないよ」
「は、はい。私はジュオール・ゼレセアンと申します。騒ぎを起こしてしまってすみません、ギレーノさん」
 様、と言うには、親しみやすさが強過ぎた。ギレーノはぽんとゼルの肩を叩き、
「気にしなくていいさ。きみは間違ったことは言ってないんだから」
 悲しそうに目が細められていたのは、気のせいだったんだろうか。ギレーノはすぐにフェルティアードを振り返っていたため、そのわずかな変化を確認することはできなかった。
 新兵だけの列は指導者にその背を見られることもなく、背の高い林に覆われすぐに見えなくなった。


 彼らが襲われなければいいが。ギレーノは青年達を心配したが、敵がいた広場にさっさと行ってしまったフェルティアードを追いかけた。現時点で自分は、この大貴族の補佐役だ。彼が来るまでは実質的な隊の指導者だったものの、本来の長が来ればただの幹部に過ぎない。
 逃げ出した兵は十人前後だと言っていた。その情報を全面的に信じてはいない。もし二十人とまでいくと、この人数ではきついものがある。
 しかし、敵兵は火器を所持していなかった。銃を持っているのはギレーノとフェルティアードだけなのだが、扱いには長けている。剣にしても、かの大貴族なら一人で二人分以上の活躍をするだろう。
 逃げ出したエアル兵は、フェルティアードの命を狙って近くに潜んでいるのか。それとも物資を求め移動したか。後者のことも考えて、ここでの調査も長くはできない。
 ギレーノは、つれて来た兵士数人と、指導者を目で追った。フェルティアードは湿っぽく光の少ない林に、半分以上入り込んでいる。部下を差し置いて一人で消えるような方でないのは知っている。わずかな手がかりも見逃すまいとしているのだ。
 それはいいのだが、またあの三人が消えている。目の届かないところまで行かれると困るというのに。嘆息し、ギレーノと共に先頭を担った兵は全員いることを確認すると、やっと件の兵が二人、林の奥から出てきた。駆け足になっている。
「どうした。また遊んでいるんじゃないだろうな」
 そう聞いて顔を見ると、見当たらないのは新兵を脅かしたあの兵ではなく、笑っていた二人の片方だった。
「も、申し上げます。敵兵が近くにいるようです」
 聞き取る分には支障のない、だが息の切れた声がギレーノの耳朶を打った。見るからに険しい顔つきで、彼はその意味を問い詰めた。
「どういうことだ。まさかやられたのか」
「そのようです。私達が駆けつけた時には、サーディはもう……」
 ここにはいない彼の名前か。唇を噛み損ねた歯が鳴り、顎を不快な振動が伝った。
「わかった、詳細はフェルティアード卿にも話してもらう。来るんだ」
 踏み出した靴が、木製の何かをへし折ったらしい。固い音が柔らかい地面に吸い込まれた。ギレーノは構わず歩き、フェルティアードを大声で呼んだ。暗がりに包まれた外套がはためき、一対の金が三人を振り返った。
「やはり、逃亡兵は付近にいるようです。兵が一人やられました」
 堂々としながら、嫌気がさすほどの威勢は感じさせない足取りで、フェルティアードは彼らの前に立った。ギレーノは仲介するように、彼と兵二人の様子を見届けられる位置に移動する。大貴族の背後は警護の兵が固めていた。
「敵の姿は見たのか」
「いいえ。彼と離れたほんの少しのあいだにやられたようです」
 フェルティアードは二人の合間から、林の奥を覗いたようだった。
「そこまで案内できるか」
「はい、それはもちろん。……ですが」
 言い淀んだ兵――悪ふざけした男に、ギレーノは訝しげに首を傾けた。何をためらうことがあるのか。フェルティアード卿を連れるのが、そんなに緊張するのだろうか。
「なんの問題がある」
「問題はございません。ただ」
 へりくだった言葉を発していた口が、突如形を変えた。
「二度とベレンズには戻れませんが」
 嘲笑。そう判断した途端、ギレーノは目にも見えず肌にも感じない風に吹かれたように全身をわななかせた。彼に追い討ちをかけたのは、大貴族の背から飛んできたくぐもった悲鳴だ。
 その状況を最初に目の当たりにしたのは、当然ながら振り向いたフェルティアードだった。四人いた兵のうち三人は首筋から血を溢れさせ、最後の一人は今しがた、幅の広い短剣を頸部に突き刺されたところだった。すぐ後ろ、張り付くように立っていたエアル兵の手によって。
 そこからのフェルティアードの動きは尋常ではなかった。剣を抜こうとギレーノが瞬きした直後には、彼の右手は柄を握り、刃さえ覗かせている。ギレーノの手はしかし、空中で動かなくなっていた。味方だったはずの兵の一人が腕を抑え、反らさせた首に短刀を突きつけたのだ。
「動くな」
 言ったのは、未だ下賎な笑いを浮かべるベレンズ兵だ。遅れて抜かれた剣先が、ゆっくりと大貴族に定められる。先端のみを鞘に残していた彼の得物は、凍らされたように硬直していた。
「大人しくついて来て貰いたい。下手に動くとこいつの喉に穴が開きますよ」
 押し付けられた刃に、うっすらと赤いものが浮かび上がる。フェルティアードは無言で、握り締めていた武器を収めた。
「おれを殺さないのか」
 口だけで、囁き声のような薄い音をギレーノは漏らした。
「あんたは使えるからな。殺しはしない」
 剣を軽く振り、フェルティアードに後ろを向くよう指示する。許し難い行為だろうが、両腕をさらして彼は従った。そして兵士はちらりとギレーノを見て、退場を告げた。
「だからここで眠ってな」
 間髪入れず、鈍く重たい衝撃が後頭部を走った。脚からは力が霧散し、ついた膝はふらつく上体を支えることはできなかった。山道に比べれば乾いた地面にどさりと倒れ落ちる。
 ギレーノの意識は、即座に消えはしなかった。脈打つ痛みに耐えながら、自分の腕ごしに見上げるように指導者を探す。この手をどかせられれば、もっと状況を把握できるのに。だが、力を込めても四肢は全く反応を示さない。
 睡魔とは違う感覚が、ギレーノを蝕み始めていた。意識が遠のくとはこいうことか。物を考えている自分が、目の奥に吸い込まれ、引き寄せられていくような。ぼやけていた視界に、小さな黒と暗い碧色を見つけた。周りには二つ、自国の兵が纏う軍服の色。その前方には、欠片しか見えなかったが確かに敵国、エアルの軍服の色。薄い水色をあしらった、派手気味のあの色。
 足音と一緒に小さくなっていくそれらは、ここから遠ざかっていっている、ということしかギレーノにはわからなかった。起き上がって追わなければ。そう心に決めまぶたを閉じたところで、彼の意思は現実から断ち切られた。