狼の騎士

第五章「光射す。」 第一節

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 二日前にあがった雨の残り香は、ぬかるんだ地面に色濃く残っていた。進むにつれて木々の葉は幾重にも重なり、黒い土には光の粒が散らばっている。ゼルも他の仲間も、歩くたび形を変える足元に何度も自由を奪われていた。転ぶ者こそ出ていないが、いつ誰が倒れ込み、泥と抱き合うことになってもおかしくない。
 そんな道とも呼べない悪路を、フェルティアードと新兵以外の兵士は、整えられた街道と同じように歩き進めていく。そのせいで遅れを取るまいと早足になるので、ゼル達は余計にふらつくのだ。
 フェルティアードの脇を固めている兵士は、自分達より一つ上どころではなさそうだった。おそらく先輩にあたる兵は、戦闘部隊の一員として先に行ったのだろう。ここ数年、エアルとの大きな戦争はなかったと聞く。たかが一年違うだけで、森とは言っても山道に近い起伏に富んだ地を、戦いの経験なしで易々と抜けることなどできない。つまり彼らは、フェルティアードと同程度に場数を踏み、力を見込まれ軍人であることを職にしている者達なのだ。
 そんな彼らは、後ろに続くゼル一行を度々振り返っていた。時には太い根があるから気をつけろ、と注意してくれもする。どっかの誰かとは大違いだな。ゼルは前だけを見、黙々歩んでいく黒髪を一瞬だけ目に映した。少しでも意識を逸らすと、つまずいたり滑りそうになってしまうからだ。
 緩やかな坂道を延々と登っていくと、先頭の貴族と兵士、そして木の枝の隙間から、天幕の先端が見え隠れし始めた。ようやく陣営にたどり着いたのだ。ほっと胸をなでおろし、その安心から坂を転げたりしないよう今まで以上にしっかりと、楔でも打ち込むかのように地面に足を踏み下ろす。
「うわっ」
 斜め後ろにいたため、ゼルの視界から消えかけていた一人が声を上げた。枝にぶつかったのか虫でもまとわりついたのか、それだけでは彼に何が起きたかなどわからない。だがゼルは反射的に身体をねじり、腕を伸ばしていた。自分も道連れに合わないよう、低く体重を落としてからだ。
 その行動は彼――エリオにとってまさに必要なものだった。ゼルの手首を掴んだエリオは、寸でのところで泥だらけにならずに済んだ。もう片方の手は、地面と彼自身を隔てるためにひどく汚れてしまったが、そんなところまで気にしてはいないらしい。すぐに起き上がりながら、エリオは礼を申し出てきた。
「ありがとう、ゼル。根っこで滑っちゃったみたいで」
 エリオも気が抜けちゃったんだろうな。ゼルには、歩き詰めで上気した彼の顔が、隠し切れていない照れのせいのように見えていた。
 道中での会話を禁じられていたわけではないのだが、ゼルは前方から強い視線を感じた。その主は見なくてもわかっている。エリオの体の具合を心配するのに集中して、その存在に気付かなかった振りをした。前進する速さが落ちることなどなく、二人は最後尾について残りの道を歩いた。
 天幕が林立する陣営は、森の奥にしては開けた場所に張られていた。布でできた即席の住まいのあいだを、兵達がひっきりなしに通り過ぎてゆく。しかし物々しい空気はなく、今すぐにでも敵と戦えるような格好をしている者は誰一人としていない。笑い声すら聞こえてくる。
 この様子だと、当初の予定の通りに事は運んだらしい。先に派遣された彼らと戦い、エアル兵は敗れたのだろう。敵がすでにいないことを知ってゼルは安心したが、少し残念でもあった。
「お待ちしておりました、フェルティアード卿」
 歯切れのいい声でフェルティアードを迎えたのは、今さっき天幕の一つから小走りに出てきた兵士だ。金色になり損なった茶の髪をなびかせたその兵士は、周りの一般兵よりもしっかりとした軍服を着込んでいる。無論フェルティアードには及ばないが、ゼルは一目で、ここにいるベレンズ兵をまとめている中心人物だとわかった。彼はたるみなどとは無縁そうな姿勢と顔つきで、今日までの戦況をかいつまんで話し始めた。
 その中身は、敵兵数人を捕虜として捕らえたということ以外は、ゼルが想像していたものとほぼ同じだった。軍勢とも呼べぬ少数のエアル兵は、本国からの援助が皆無だったせいもあってか、その倍もないフェルティアードの兵によって敗退。いや、殲滅されたと言ってもいいかもしれない。そして、かろうじて生き残った者は虜囚になったという。
 捕虜に関しての話題になると、若い幹部兵はわずかに声量を落とした。それは新兵一同にも届いたが、何か問題でも起きたのだろうか、と懸念させるには十分過ぎるものだった。
「捕虜の話では、我々が到着した時と前後して、逃亡者が出たようです」
「しかし、エアルはやつらを見捨てたはずだ」
 フェルティアードの眉間に、さらにしわが刻まれた。
「その通りです。ですので、その数人の逃亡者が身を隠せる集落でも見つけ出したのでしょう」
「なるほど。面倒なことになったな」
 舌打ちもしかねないほど、フェルティアードはわずらわしげに言葉を吐いた。
「その捕虜と話はできるか」
「はい。ご案内致します」
 自分達のことなどまるで眼中になさそうな大貴族に、ゼルはここで何ができるのかと辺りを見回した。まさかこのまま、敵兵の尋問に新兵が加わるわけはないし、そんなことをこの貴族が許すはずがない。
 するとフェルティアードは彼らに、それぞれ休憩を取るように言ってきた。ゼルは目をしばたいた。てっきり無視してしまうかと思っていたからだ。慣れない山道のようなところを通り喉も渇いていたので、実はそこまで考えていてくれたのか。
 しかしゼルはそこで見方を変えた。相変わらず面倒そうな、義務的な喋り方だった。休むよう言ったのは、そうしなければこれからのおれ達の動きが鈍くなるからだ。おれ達を労っての言葉じゃない。
 ゼル達と共に来た兵士の中から二、三人を伴い、フェルティアードは茶髪の兵に続いて行った。その背を目で追うのもそこそこに、ゼルはまず水を分けてもらおうと、エリオと一緒に近くにいた兵士に声をかけた。
 水だけでなく食い物もやる、と快諾した一人のベレンズ兵は、二人を天幕に連れて行ってくれた。大きく見えていても、中にいた数人の兵は狭苦しそうに、寝台や小さな腰掛けに座っている。それなのに彼らは嫌な顔一つせず、入り口近くにいた兵などはわざわざ席をエリオに譲り、並列した寝台の三人目の座客になった。
 ゼルも同じように席をもらい、先導してくれた兵士から水筒を受け取った。一口分だけで事足りるだろうと、感謝の意を示してから口に流し込む。しかし決して冷たくはないその水が伝った喉は、待ちわびた癒しに歓喜し、さらにその液体を求めた。
 これでは全部飲んでしまう、と染み渡らせるように力強く嚥下し、ゼルは水筒を返そうとした。だが当の兵は気にしなくていい、汗だくだろう、と押し返してきた。言われて、滝のようにとは言い過ぎだが、それなりに汗もかいていたことを思い出す。フェルティアードの目を気にして、体の調子まで失念していたなんて。
 好意に甘えてその水筒の中身を頂戴し、隣の兵からは干し肉を渡された。少量だったが、不足ではないのは食べてすぐわかった。あまりに固くて、そう簡単に飲んでやれないのだ。こればかり食べていれば、顎だけ強くなってしまいそうだった。
 思いのほか和やかだった彼らの雰囲気は、ゼルをその場に引き止めようともしていた。しかしそう長居はできない。フェルティアードはいつ戻ってくるかわからないのだ。早めに行っていたほうが無難だろう。
 席を立つと、兵達はもう行くのか、とか、あの方のところは忙しいな、とこぼした。忙しくはないのだが、まあ似たようなものかもしれない。二人はお礼を残して天幕を出た。葉や土の香りが混ざり、鼻を突いてくる。
 大貴族に注意されるのを避けるためか、他の新兵も早々に元の場所に集まっていた。が、彼らはそれからさらに軽く十分は待たされた。集合に遅れて注意されるよりはもちろんましだ。それにしても、そんなに長い話でもしているのか。
(逃亡者、か)
 ベレンズ側としても、逃げ出したという敵兵を放置する気などないだろう。もしあの若い兵士の言う通り、国内の村に身を潜め、あげく占領などしていたらなおさらだ。
 とすると、ベレンズの勢力がここに居座ってももう意味はないのか。それよりも周辺の集落を調べ、彼らが遠くまで行かないうちに探し出したほうが。
 今後の動きを考えていると、天幕のあいだを縫って、ようやくフェルティアードが姿を現した。後ろには、連れ立っていった兵と、あの幹部兵が見える。何分間休んでいいかくらい言い残して欲しかったもんだ。いらつきから生じたため息は、彼が話を始める前に消え去っていた。
「わたしはこれから敵陣を視察する。ついて来る者はいるか」
 前置きも何もない発言に、一同がうろたえたのがわかった。ゼル自身もそうだった。自分達の意見も聞かずについて来い、というのではない。選べというのだ。そしてそれは、本来は予定になかった行動でもあった。
「それは、義務ではないのですか?」
 そう聞いた同期は、ゼルの中で顔と名前が一致している人物だった。ラジッド・セアス。最初にフェルティアードに手厳しい返答をされた、あの青年だ。
「そうだ。逃亡者は、我らベレンズ勢の指導者の命を狙っているようだ。わたしがここを離れれば、奴らはわたしを殺すため姿を見せるかもしれん」
 数少ない勢力で、大勢のベレンズ軍に太刀打ちはできない。それならば、その軍勢に対抗するよりも、指揮する者を倒せばいい。エアルから見れば逃亡者、裏切り者とされた彼らはそう考えたのだ。そしてフェルティアードは、その残りの敵兵をおびき出そうとしている。この罠に相手がうまくかかれば、当然大貴族に付き従う者にも命の危険が生まれる。だから彼は、新兵に選択の余地を与えたのだ。
 とは言っても、これは半ば試されているようなものだ。陣営に残ると言えば、この男はその兵を見限るに違いない。ゼルの中にも恐れはあった。不確かといえども武器を持ち、自分を殺そうとしてくる人間に出会うかもしれない。
 だがそんな怯えもへし折るぐらいに、ゼルはフェルティアードについて行く覚悟を確固たるものにしていた。ほんのわずかであっても、この男に迷いや隙を見せるものか。
「是非私を行かせてください」
 第一声はゼルだった。あの一件から数日しか経っていないせいか、見知った人物相手にやむなく口調を丁寧にしているような気分だ。最も、非常に険悪な意味での“見知った人物”だが。
 ゼルに続いてエリオが名乗りを上げると残りも次々に同意し、結局ここに残る者は出なかった。フェルティアードは、思惑通りに事が運ばなかったからなのか、つまらなさそうに口を曲げたように見えた。二、三人は脱落者が出ると思っていたのか。彼のことだから、新兵達は敵に遭遇する恐怖より、臆病であることをさらされる恐怖のほうが勝って、嫌々ながら敵地に臨むことにしたと解しているだろう。
「全員か。では来い、列を乱すな」
 進行した方向は陣営の北だ。ゼル達はここから見て南側から入ってきた。北はさらに森の内部――山間部へと進むことになる。
 フェルティアードが、自身の脇に茶髪の幹部兵を従えたのと、陣営から呼ばれたらしい三人の兵士が最後尾を務めている以外は、来た時と同じ形態だ。生い茂った草葉を手で払っていると、地面の傾きが変わった。下り道になっている。
 天幕の並んだ領域の地面は乾いており、歩きやすかったが、しっかりと足跡を残すこの土は、また兵達の靴を絡め取ろうとしていた。おまけに今度は、転びなどしたら転がり落ち、フェルティアードに激突してしまう。慎重に足場を見極めながら、ゼルは平地を待ち遠しく感じていた。
 坂が終わってから五分ほど進むと、先ほどの味方陣営ほどではないにしろ、人の手が入ったことが窺えるような、下草の少ない場所にたどり着いた。それと同時に、黒く汚れた大布や骨組みらしき物の残骸が散乱し、到底使い物にはならないような、小型の刃物が放置されている光景も広がっている。周りは木々が密集し、数十歩先は暗がりと言ってもいいぐらいだ。
 慣れたはずの森の匂いに、異質なものが混じっている。鉄か血か。自然物しかないこの場とっては、不釣合いなことだけははっきりとわかった。
 生きていない人間の姿は、ざっと見ただけでは目に入らなかった。無意識に避けたのかもしれない。目を凝らさなければ、気になった物の詳細はわからなかったからだ。
 人の気配は、自分達以外にはない。これが戦場だった場か。どんな表情でこれを見ているのだろうとフェルティアードに向けようとした碧眼は、背後から聞こえてきた声の主を映した。
「ん? もう一人はどこだ?」
 それは大貴族の耳にまでは届かなかったようだ。聞こえていたら、誰かいなくなったのかと問い詰めかねないその内容は、ゼルも不思議がるものだった。
 一人はぐれたのか。人数を数えてみたが、新兵は全員いる。もしや、一番後ろにいた兵士が? そういえば、三人いたはずなのに二人しか見当たらない。フェルティアードと話すのに前方に移動したのかと前を見るも、当の彼は幹部兵と言葉を交わしている。すぐ隣にいるのは警護役の兵士で、話が終わるのを待っている様子ではない。目を移す過程で兵士の数も数えなおしたが、やはり一人足りなかった。
 まさか、道中に敵が潜んでいて、襲われたっていうのか? 二人に気付かれずに? しかし現に、二人になってしまった元三人の兵はフェルティアードに報告しようとしている。彼らのすぐ前、新兵の列で見れば後部にいた同期などは、やはり同じく敵の存在に思い当たったのか、顔が青ざめているようだった。
 がさがさと揺れた低い位置にある枝と茂みは、その表情からさらに色を抜いていった。彼らはもちろん兵士二人も、間を空けていたゼルもとっさに身を低くする。風ならいいのだが。幹の陰から、あるいは茂った草木を押しのけ、何かが飛び出してくるのでは。
 目を凝らせば凝らすほど、緊張で体が固まっていく。出てきたのが小動物であっても、柄にかけた手が得物を抜けるとは思えなかった。
 一際大きく揺らいだ茂みが、大きく割れた。
「死ね!」
 獣ではない。人間。それと同時に理解できたのは、その人が細長い刃物を掲げていることだけだった。凶器は一直線に、硬直していた一人の新兵の胸に吸い込まれていった。