狼の騎士

第四章「激情の闘士」 第四節

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 あとを追ってくるだろうか。逃げるように廊下を進みながら、ゼルは一瞬だけ大貴族の部屋に目をやった。扉が閉まりきっていないのを見ると、どうやら力を入れなさ過ぎたらしい。
 怒っていたとはいっても、力任せに音を立てて去るのは、引っ込みかけていた理性が制止していた。その時は気分が晴れるだろうが、最後に自分の中に残るのは後悔しかない。自分はなんて馬鹿らしいことをしたんだろう、と。
 自分でも馬鹿だと思うことをしたら、他人にだってそう見られる。ましてや面と向かってたあの男だって。彼の顔を思い出し、落ち着いてきたはずのゼルの歩みは、床を踏み抜かんばかりに無駄な力が入り始めていた。
「ゼル!」
 前方から声をかけられ、ゼルは自分が足元だけ見ながら歩いていたことに気付いた。見れば、壁に寄り添うようにエリオが立っている。
「エリオ。もしかして待っててくれたのか?」
 稽古をするための闘技場に、外套や剣を取りに戻ったはずのエリオは、ゼルが顔を上げるとほっとした様子で迎えてくれた。
「うん。ちょっと心配で。どうしたんだい? フェルティアード卿に何か言われたのか?」
 一人自分の帰りを待っていたエリオに驚きつつ、同時に嬉しさも感じた。しかし彼があの貴族の名を言った途端、射したはずの光は暗い雲に遮られてしまう。それが顔に出たのだろう、エリオは「嫌なら言わなくてもいいよ」と、優しく付け加えてきた。
 正直、無関係なエリオにまで叫んでしまいそうだった。でも、何も知らない彼にわめいたところで、そんなのは八つ当たりにしかならない。
「ごめん。ちょっと言い争ったから、きみにまでひどいこと言いそうで」
「ぼくなら気にしないよ。その、言い争ったって、フェルティアード卿と?」
 肩を並べて歩き出しながら、エリオは意外そうに問いかけてくる。
「そうだよ。まったく……人のことなんだと思ってるんだ、あいつ」
 つい悪態がこぼれ出てしまった。エリオの歩みが止まり、ゼルも止まる。さすがに“あいつ”と口に出すのはまずかったか。おそるおそるエリオに視線をずらすと、彼は今にも飛び出しそうな目をしていた。
「……ゼ、ゼル? どうしちゃったんだい、まさかとは思うけど、あいつ、って」
 フェルティアード、と続きを拾ってやると、エリオは顔面蒼白になった。今のは名前を言っただけなのに、どこに衝撃を受ける要素があったんだろう。だが少し考えると、理由は単純だった。敬称をつけるのを忘れていたのだ。
 血の気の戻らないエリオを眺めながら、エリオはおれのことを叱るだろうか、と予想する。真面目そうな分、頑固なところもありそうだし。
「ゼルっ! これからあの方と戦地に行くっていうのに、どうしてそんな」
 思った通り、エリオは声を荒らげてきた。だが本気ではないらしい。他に人がいるわけでもないのに、小声になっている。最もな受け答えだったので、ゼルはそれ自体に反論する気はなかった。引っかかったのは、ほんの些細な一節だった。
 あの方。また奥深くで怒りが小さく、だが確実に燃え出す。あいつはおれたちを見下してるんだぞ。きっと信じてもいない。それを知ったら、滑るように“あの方”なんて呼べなくなる。疑問と不安を抱えながら、その言葉を使うようになるんだ。
「いいんだ。自分に対して丁寧な言葉遣いで話さなくていい、って直々に言われたんだから」
 エリオに言い寄られるのが嫌だった。振り切るように、彼に横顔をさらす。
 言ってから、そういう口調で話すことを許されたのは、あの時あの場だけだったのでは、と思いつく。普通に考えたらそうだろう。でもおれとしては、一度あそこまで言ってしまったら、また顔を合わせた時にさっきの話し方が出てしまいそうだ。
「なんだ、あいつがまた気に食わんことでも言ったか?」
 ゼルとエリオが同時に叫び声を上げた。背後から突然、低い男の声が割って入ってきたのだ。二人の息の合った振り向きようを見て、声をかけた本人はにっこりと笑った。
「よお、ゼル君。隣のはお友達か?」
「ゲルベンス卿!」
 人がいたなんて全然気付かなかった。気配を消して来たんだろうか。この人だったら、自分達を脅かしてやりたいと思ってやりかねないことだ。
 エリオも名前は知っていたらしい。ゼルが叫んだのを聞くと、慌てたように自己紹介をした。
 ゲルベンスがよろしくな、とあいさつしたのを見計らい、ゼルが出兵についての説明を受けていたことを話すと、
「そうか、もうすぐだもんな。で、むかつくようなことを言われたのはゼル君か?」
 どちらだと問われれば、これは確実にゼルだ。なんだか怒られそうな気がして、はい、と力なく答える。
「そう縮こまるな。何もそんな風に言うな、って注意したいわけじゃない。ただ、ちょっときみに話したいことがあるんだ。エリオ」
 なるほど、ゲルベンス卿は基本的に、姓で人を呼ぶことはしないようだ。いつぞやのゼルみたいに体を強張らせたエリオが、普段より高い声で反応する。
「荷物を取りに戻るんだろう? 少しゼレセアンを借りるから、彼の分も持ってきてくれないか」
「は、はい、承知致しました!」
「おれ達は部屋に行ってるから、そっちに頼むよ」
 部屋? とはどこだろうか。ゼルはもちろん、エリオもすぐにはわからなかったらしい。それを読み取ったか、ゲルベンスが言葉を補う。
「すまん、言い足りなかったな。おれの部屋だ」
 てっきり立ち話で済ませるとばかり思っていたゼルは、自分の耳を疑った。しかし聞き違いではない。ゲルベンスは目の前で、軽い調子でエリオに自室の場所を教えている。フェルティアードの部屋から近い所にあるようだ。
 エリオがその場を離れる際、ゲルベンスはゆっくりでいいからな、と彼に呼びかけた。ゼルだけに話があることを、暗に念押ししているようだった。エリオもそれを理解していたか、早足にもならずにゼル達に背を向けて行った。
「さて、行くか。その後鼻は大丈夫か?」
 からかうように聞かれ、ゼルはやっと笑みを浮かべた。あの時は用事があったせいでお世話になることはなかったけど、結局こうして部屋にお邪魔することになるなんて。
 大丈夫です、と答えるとゲルベンスはまた笑って、廊下を引き返していく。それについて行くと、彼はフェルティアードの部屋より、数室分奥に進んだところにある部屋の扉を開けた。
「遠慮はいらん。ほら、入りな」
 二年間の師と仰ぐ貴族以外の部屋に入る機会が、こんなに早く訪れるとは思っていなかった。部屋の内装はフェルティアードのそれと何ら変わったところはない。家具の位置、机の大きさが異なっているのと、壁や敷物の色合いが若干明るく見える程度だった。
 壁際には、座部も背もたれも膨らんだ、柔らかそうな長椅子が据えられており、ゲルベンスは先にそこへ座り、ゼルにも腰掛けるよう促した。予想はしていたが、弾力にも富んでいた座り心地に、ゼルは思わずへりを掴み、体を支えようとしてしまっていた。
「いつもなら茶ぐらいは出すんだがな。彼もすぐ戻ってくるだろうし、手短に話そう」
 彼とはエリオのことだろう。広げた両膝の上にひじを乗せ、組んだ手の上に顎を置く。そんな格好で、ゲルベンスは傍らの青年に視線を移した。
「おれの見たところでは、きみはフェルティアードと一戦交えたようだな。なんて言ってやったんだ?」
 できるだけゲルベンスに対し正面を向こうと、やや斜めに構えていたゼルの体が、一瞬びくりと震える。棘のある口調ではなかった。むしろ、ゼルの返答を楽しみにしているようでもある。さっきのエリオとの会話は、一体どこから聞かれていたのか。
「そんな、一戦だなんて。私はただ、勝手な思い込みをされたくなかっただけです」
 つい数分前の出来事を、ゼルは事細かにゲルベンスに話した。自分とフェルティアードの応酬をなぞっていると、また言い合いをしている気分になってくる。その度に、今話し相手になっているのは大貴族の一人なのだと言い聞かせた。
 ゲルベンス卿はなんと言ってくるのだろう。彼の反応が気になって、話し終えたら一度口を閉じようと思っていた。しかし、浮かんでくる謎は自分だけでは解決などできなく、口は止まらずに疑問を吐き出した。
「ゲルベンス卿、なぜあの人はぼく達を信じてくれないのですか? ぼく達が何をしても、いつも突き放してくるようで」
 彼なら知っている。次第に暗さを増す空に負けじと、夕日色の髪が映える大貴族。一つしか違わない階位だと言っても、あのフェルティアードに親しげに呼びかける彼なら。
 わけを知りたい。だが、踏み入り過ぎだろうか。兵になったばかりの自分が、大貴族の性格にまで首を突っ込むのは、やはり失礼か。
 いや、とゼルはその遠慮を取り払う。国の兵として精一杯奉仕するのに、彼の態度は障害になっている。これでは、能力を出し惜しみする人まで出るかもしれないじゃないか。敬意が恐れになっては、元も子もない。
 ゲルベンスは問われても、ゼルから目を離さなかった。その顔には、もうからかうような色はない。かと言って初対面時の厳しさが表れていたわけでもなかったが、ゼルにとっては冷や汗ものだった。
「……あいつはな」
 曇り空とよく似た、しかし稲妻の如き閃きを纏った瞳が部屋の中ほどに泳いだので、ゼルは内心安堵した。同時に呟かれた話の始まりに、すぐさま耳を傾ける。
「根っからの嫌なやつじゃないんだ。そうせざるを得なくなった、ってとこだろうな。きみ達に冷たくあたり、信頼もしなければ期待もしない。いや、したくてもできなくなっちまったんだろうな」
「……? どういうことですか?」
 核心を突くかと思われた話題は、ゼルに首をひねらせる程度にはぐらかされていた。あの愛想の欠片もないそぶりは、本当の彼のものではないというのか。
 ゲルベンスが手をほどき、背もたれに寄りかかる。そして困ったように眉を下げ、
「すまん、あんまり話すとあいつに怒られるんだ。怒らせると怖いのは変わりないな」
 フェルティアードの本心に関わることは、終わりにしたいようだった。
「とりあえず、きみ達を嫌ってるわけじゃないんだ。それだけはわかってくれ」
 彼は一言も言わないが、フェルティアードと非常に親しい仲なのだろう。その彼にここまで言われれば、否とは答えられない。承諾する声と頷きは小さかったが、ゲルベンスにはそれで十分だったらしい。紙に水が染み込んでいくように、柔和な笑みが差し始めていた。
「しかし、あいつに食って掛かる子が出てくるとは驚きだ。大抵の奴はびびって、事を荒立てないで引っ込んじまうばっかりだったのに」
 今度は頭を支えるように手を組み合わせ、すっかりくつろいだ状態のゲルベンスは、さも他愛のない世間話のように話を振る。挑発されて乗ってしまう馬鹿者と見られているのか、常だった流れを壊した者として注目されているのか。
 ゼルは前者のほうだと信じていた。耐えていれば、険悪な雰囲気にもならなかったし、今まで以上にフェルティアードとの関係を悪化させもしなかった。でも、どうしても我慢できなかったのだ。自分の欲だけに忠実な男と思われていたことも、デュレイに深手を負わせたことも。
「ゲルベンス卿、ぼくはつい頭にきてしまっただけなんです。彼が、ぼくなんか遠く及ばない大貴族だってことも忘れて」
「……後悔してるのか?」
 ゲルベンスの声から、明るさが消えた。所業を振り返っただけなのに、どうしてこの人は残念そうにおれを見るんだろう。まるで、おれが彼にとって期待外れなことを言ってしまったみたいに。
「ぼくは……」
 悔いているか? 後先考えず、偽りのない己をさらけ出したことを。フェルティアードにとって、絶対に気に食わないであろう存在になったことを。
 おれは嘘をついたわけじゃない。全部本気で言ったことだ。単なる対抗心から言い合いを始めたんだったら、悔やんでいたかもしれない。でも実際はそうじゃなかった。彼がどう思おうと、おれは自分の考えを曲げるつもりはない。
「後悔はしていません。後悔するほど責任を持たずに発言した覚えはありませんから」
 そう断言すると、ゲルベンスは嬉しそうに、
「そうか。だが怖くはないのか? あいつは敵に回すと恐ろしいぞ」
 くつくつと笑い出しまでする。敵だなんて、この人はあり得ない例を引っ張り出してくるんだな。想像もできず、ゼルもつられて笑ってしまう。
「怖くないとは言い切れません。でも、怯えていたくもない。そうしたいと思わないし、何より彼に怯えを見せたくないんです」
 強がりじゃない。おれは本当の自分を隠して、何事もないように演じるのが苦手なんだ。
「なるほど、きみは強い男だな。あのフェルティアードと対等に渡り合おうとするなんて」
 上官である貴族と、部下となる兵士としてあるべき姿を対等だと言ってるのだろうか。もしそうなら、フェルティアードはよほど怖がられていたに違いない。
 ゼルは強いな、と言われて浮かれそうになったが、いくら自分によくしてくれるゲルベンス卿でも、これは身に余るお世辞だ、と思い直した。持ち上げてもらってもなんにも出やしないのに。
 雨音に混じって、よく通る硬い音が二度鳴った。窓から聞こえたものではない。ゼルがそちらに首を向けた時には、ゲルベンスが「入っていいぞ」と声を張り上げている。空気まで震わすような響きに気圧されたように、そろそろと扉が開かれた。
 二振りの剣に布を抱え、辺りを見回す青い瞳は落ち着きがない。だが、確かにそれはエリオだ。入るようにとまた呼ばれ、彼はやっと廊下と部屋の狭間から抜け出してきた。
 棒立ちのエリオを二人で迎え、ゼルは自分の剣と外套を受け取った。ゲルベンスは一人、小雨になりつつある曇天に文句を垂れ流す。
「まだ降ってるのか。少しは弱くなったみたいだが。傘貸すか?」
「えっ、いえ、やみそうでしたら大丈夫です」
 舌を噛みそうになりながら断ると、まあ一つしかないからな、と偉丈夫はからからと一笑した。本当に、彼のところで兵として働く同期がうらやましい。
 彼の、フェルティアードの下にいて、騎士になることなどできるんだろうか。普通に考えれば、地位の高い貴族に教えられるというだけで誉れ高いことだ。よくない噂なんて、その階級があればないに等しい。
 騎士は、その働きぶりから貴族が選ぶのが常だ。よって師になっている貴族が引き抜く場合が多い。しかし、今のままではまず望めないことだ。ゼルは良いとは逆の意味で、フェルティアードの目に留まってしまっているのだから。
 他の貴族の隊も戦に同行するなら、可能性はあったかもしれない。だが今回はフェルティアードの隊だけで、しかも新兵が直接敵と剣を交える予定はないのだ。手柄を立てようとするにも無理がある。
 そのうえ、今は比較的平和な時代だ。そんな世で、騎士に召し抱えられるのは難しいに決まっている。戦争などないのが一番だが、夢を叶えようと思うと、どうにもやりにくいのだった。
 ゲルベンスに別れを告げながら、腰に吊った剣を握る。焦ることなんかない。自分にできることを、すべきことをやればいい。そこをほんの少しだけ踏み出して、やれることの範囲を広げられれば。
 簡素な戸口から外に出る頃には、雨はほとんどやみかけていた。浮かんでいるのが不思議なくらいに重そうな雲は、青いはずの空を隙間なく埋め尽くし、その色の欠片さえもこぼすまいとしているようだった。