狼の騎士

第六章「石狼の目覚め」 第一節

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 ベレンズに戻ってから今まで、フェルティアードがどういう状態なのか、デュレイの容態は改善したのか、ゼルの耳には何も入ってきていなかった。進んで聞くこともなかったからだろう。しかし最初の一週間をあの医務室で過ごしたにも関わらず、デュレイの姿は結局見られなかった。あの医者もだ。デュレイが別室に移動されていて、医者もそれにかかりっきりだとするなら、目にすることがなくて当然だったのかもしれない。
 フェルティアードはというと、彼はどうやら自室で療養しているらしかった。というのはゼルの勝手な想像だ。医務室に世話になってないのなら、あとは彼自身の部屋しかない。
 彼の傷の程度は定かではないが、数だけで見るならこちらのほうが重傷である。しかし傷の治りが順調なのと家賃のこともあり、ゼルは一旦下宿に帰ることにした。担当医は留めようとしたが、無理にとは言ってこなかった。完全に治りきっていないのにこの場所を後にするというのだから、心配がるのも当然だ。ゼルも王宮に長居したせいで滞っていた用事を片付けたら、すぐにでも戻るつもりだった。
 だが、半年も過ごしていないのに慣れた住まい、もとい誰にも邪魔されず一人でいられる空間というものは、非常に居心地がよかった。傷が完治するまで、定期的に王宮に通わずともいいとお達しが出ていたせいもあって、ゼルはしばらくのんびりとした生活を謳歌していた。
 そんな彼に一通の手紙が届いたのは、つい先ほどのことだった。買い物から帰ってきたゼルに、家の主人が手渡してきたのだ。ベレンズ国王の署名を見つけた瞬間、危うく荷物を詰めた袋を放すところだった。家主はそんなゼルを見て、にこにこと明るかった顔を暗く濁らせた。
 飛ぶように二階の借り部屋に戻って、ゼルは扉に背を押し付け息をついた。一応礼を言ってきたが、家主はこの手紙を呼び出し状だと思ったのだろう。無論、悪い意味でだ。あんな反応をしたら、きっと誰だってそう取ってしまう。
 袋を卓上に置いて、椅子に腰掛けながら封筒に目を走らせる。住所と宛名は紛れもなくこの家、そしてゼルのものだ。ご丁寧に出身地名まで含まれている。裏返せば、徴兵の知らせの手紙と同じ署名が綴られていた。
 あまりに顔を出さなさ過ぎたか。一ヶ月、とまではもちろんいかないものの、例の怪我も包帯がいらないくらいによくなっていた。王宮の医師に今一度診てもらい、これまで通りに復帰するよう催促が来たのかもしれない。
 気を落ち着かせて開封するためのナイフを探そうとした時、来客を知らせる音が鳴った。ドアを開けると、立っていたのは家主だった。ゼルを訪ねてきた男がいるので、通していいか聞きにきたのだ。
 人相を聞くと、それは十二分に見知った人なのがわかった。あがってきてもらうように頼むと家主は承諾し、階段を下りながらその下で待っていたらしい訪問者に声をかけていた。入れ違いで上ってきた彼は、ゼルを見るなり顔を輝かせ、足取りを速めてくる。
「ゼル! 久しぶりだね、怪我はもういいのかい?」
 短い廊下を抜け、エリオは視線を下に落とした。敵との戦闘直後に会っていた彼は、ゼルがどこにどのくらいの裂傷を負っていたか、よく知っている。
「うん、だいぶね。脚はまだちょっと痛むけど、普段通りに歩く練習もしなきゃいけないし。さっきも物を買いに出てきたところなんだ」
「そっか。それじゃあもう夕飯の準備?」
 ゼルはかぶりを振って、
「まさか。まだ四時を過ぎたばっかりだろ。少しくつろいでいきなよ」
 エリオを中に入れてやってから、ゼルはまた同じ席に座った。足を組みながら、棚に置いていたナイフで封を切る。その向かい側に、エリオは腰を落とした。
「誰から来たんだい?」
「王宮からさ」
 えっ、と身を引いたエリオに、国王陛下の署名付き、と封筒の裏側をひらりと見せる。それを見つめる彼を尻目に、ゼルは中身のほうを取り出した。
 ゼル達一般市民に出回るものとは違う、白く汚れのない紙。それと一緒に、ほのかに香の香りが広がった。
 そういえば王宮に入ると、決まってこの匂いが漂っていたっけ。すぐに鼻が慣れてしまうから気にしていなかったけど、あの建物が普通とは違うことを思い出させてくる。
「さて、王宮通い再開のお知らせかな」
 頬杖をつき、片手で二つ折りの文面を開いた。窓から差し込む自然の明かりでも透かない便箋と、投げ出された封筒。それらを交互に見やってから、ひじをついたエリオはどんと佇む買い物袋に横目を流した。
「そうかな。ゼル、ぼく思うんだけどね」
「うん」
 一行目からしっかりと目で追うゼルの調子は、半ば生返事であった。
「きみはあのフェルティアード卿の窮地を救ったんだよ。しかもたった一人で。兵役に復帰するでも医者に診てもらうでもない。まずきみは……」
 エリオの言葉はか細くなっていった。顔を上げた彼の目には手紙を持つゼルの腕が映っていたのだが、それがどうも小刻みに震えている。
「……そのことを……ゼル? どうしたの?」
 腰を上げて覗き込もうとしたエリオを止めたのは、手紙を机に叩きつけて椅子を転がし立ち上がったゼル自身だった。
「エリオ! 大変だ、これ陛下直々のお手紙で、しかも、その、おれに直接会いたいって」
 紅潮とも蒼白ともつかぬ表情で、ゼルは変に言葉を詰まらせながら、しかし一息にまくし立てた。そんな彼に、エリオは最初こそ体を強張らせていたが、すぐに彼の言わんとしていることを読み取ったらしい。そっと口元と目を緩ませた。
「ほら、ぼくの言おうとしてた通りじゃないか」
「え? 何?」
 エリオは何か喋っていたか? 走ってもいないのに息を弾ませるゼルに、エリオは目を見張る。
「何、って、最後まで読んだんじゃないの?」
 ゼルは頭を横に振った。実は、国王が会いたい、という下りを目にしたところで、その一文に衝撃を受け読むのを投げ出してしまっていたのだ。
 代表として会ったには会ったが、印象は最悪だったはずだ。それでなくても、なんの肩書きも持たない兵士を呼び寄せるなど、そうあるものではない。反逆だとか敵に寝返っただとか、そういうことなら必然だが。
 無論そんな覚えもないのだが、国王に謁見を求められる手紙の存在だけで、ゼルの頭はいっぱいだった。見せて、と紙を指先で叩かれ、机上に押し付けたままだったそれをエリオに手渡す。今の状態じゃ、何が続いて書かれていても噛み砕く自信がない。
「ゼル、書いてあることそのまま読み上げるのと、ぼくなりにわかりやすく要約して言うのと、どっちがいい?」
 エリオはおれの様子を見て、楽しんでいるに違いない。変わりのない笑顔に影が差しているように見えるのは、自分が取り乱していることを自覚し、それを恥じている証拠だとゼルは思った。
「子どもでも理解できるように言ってくれ」
 倒した椅子を立て直し、ゼルは息を整えて座り込んだ。
「わかった。じゃあ言うよ。陛下の仰ることはつまりね」
 我がことのように、青年は満面の笑みをさらした。
「フェルティアード卿を助けたことを褒めたいから会ってくれ。だってさ」
「……え?」
 この上なく簡略された、それでいて本題を明確にした一言だった。
 あの大貴族を危機から免れさせた。それについて、国王自らが褒美の言葉を送りたいというのだ。戦地に赴き、ただ単に、兵の指揮者が失われてはならない、という勝手な意気込みからとった行動が、こんな結果を生むなんて。
「そんなとこだろうと思ってたんだよ。おめでとう、ゼル。陛下は明後日の十時に来てほしいそうだよ」
 文字がすぐ目に入るよう向きを変え、エリオは文書を机に滑らせながら返してきた。読むのをやめた数行目を見ると、確かにエリオが言ったことを堅苦しくした内容が、つらつらと記されている。指定された日時も、当然だが明後日の十時と書かれていて、場所は王宮の正面玄関内になっていた。
 ぽかんと口を開けたままのゼルに、エリオは唇を尖らせて言う。
「いつまでたっても、ゼルが陛下にお褒めの言葉を頂いたって全然聞かないから、おかしいと思ってたぐらいなのに。大体ゼルは貴族になるって言う割には、ちょっと欲がなさ過ぎるんじゃないか?」
「いや、おれはその、もっとでかいことをしないといけないと思ってて。敵をたくさん倒して手柄を立てるとかさ」
「立てたじゃないか」
 何を今さら、と言わんばかりにまばたきするエリオに、ゼルは自分が想像していた手柄というものを語った。
「でも、おれはたった一人も敵を殺してないんだぞ。闘いはしたけど、エアル兵を全滅させたのはフェルティアード卿だ」
「確かにそうだけどさ」
 青色の瞳が閉じられたように見えたのは、彼が組んだ指を見下ろしたためだった。ゼルと同じ、それよりもやや明るく、デュレイよりはきらめきのない金色の短髪が、エリオの挙動でかすかに揺れた。
「フェルティアード卿があれ以上の傷を受けずに闘えたのは、きみのおかげさ。きみが思う“手柄”はないかもしれないけど、あの方へのお力添えが、邪魔にならずにあの方のためになったんだ。陛下のお目にとまるのは当然の成り行きだよ」
 またにっこりと笑う。なるほど、そういう見方もあるか。
 とにもかくにも、国王陛下と再会することを断る理由などない。自分はどうであれ、陛下は一連の行動を、賞賛に値するものと見られているのだから。
 治療のためふせっているとしても、顔を出さないのは元からなので変化はないのだが、エリオからフェルティアードのいない稽古の様子を聞いて、そこから全く関係のない、よく行く店や食事どころの話に移って盛り上がる頃には、日もすっかり赤く変わっていた。
「直接つながらないにしても、今回のことがきみの夢の足掛けになるといいね」
 帰り際、エリオはそんなことを言ってくれた。そうだ、貴族よりも先に、おれはベレンズの王に認められるんだ。フェルティアードだって、あの時は押し黙っていたけど謝礼の一つくらい言ってくるだろう。むしろそれがなかったら、貴族としての品格を疑う。
 日差しの照りつける窓を開け、赤みがかった街並みを眺望する。下を見ると、通りを歩いていくエリオの姿があった。
(そういや、デュレイのこと聞くの忘れてたな)
 しかし、エリオが自分からデュレイの話題を持ち出さなかったところ、彼も詳しくは知らないのだろう。大体隊も違えば共通の知人もいない。いまだにデュレイが別所にいるなら、医務室に行ったとしても会えずに引き返しているはずだ。収穫のなかったことを、エリオは話す気にはならなかったのかもしれない。
 もし。ゼルは絶対にないと自分に言い聞かせながら仮定した。もしデュレイが死んだとなったら、きっと知り合いの関係を問わずに広がってくる。王宮に行ったら、そんな噂を耳にしてしまわないだろうか。でもあのエリオが、すぐにばれるようなことを黙っているだろうか。
(よし、決めた)
 明後日は早めに王宮に出向いて、先に医務室に行こう。会えなくても、デュレイの具合だけは知っておきたい。
 強い風が吹き込んだ。ゼルを素通りしたそれは、机に置いたままだった紙切れをいともたやすく空中に舞い上がらせてしまう。ゼルは慌ててガラス戸を閉め、窓掛けを両側から引き覆った。


 立ち尽くし、頭も据えて、ゼルはぐるりと二つの目だけを巡らせた。さっきも見直した光景だ。変わるはずがない。自分以外誰もいないのに、変化があったら恐ろしいではないか。
 二つある扉のうち、ベレンズの紋章がないほうを振り返る。彼女が――ティエナ・セレズといったか――案内してくれたこの部屋に入るのは二度目だ。ただ、一人だけということでずいぶん広く感じてしまう。
 現状から言うと、ゼルは医務室を経由してここに来たわけではなかった。
 約束の三十分以上前に王宮玄関に来たゼルを待っていたのは、初日にフェルティアードの部屋までの引率をし、彼とデュレイの決闘の立会人になったティエナ・セレズだった。まさか自分を迎えるためにいたとは知らなかったゼルは、会釈をして通り過ぎようとした。そこを彼女は、名前を呼んで止めてきたのだ。
 ――ジュオール・ゼレセアン。陛下のお呼び出しの件で、あなたを連れてくるよう言い付かっています。ついて来なさい。
 彼女はそうはっきり言うと、予定を強制変更されたゼルを置き去りに、さっさと歩き出してしまった。ゼルは早足で彼女に追いつき、時間が早過ぎはしないかと問いかけたのだが、早いに越したことはありません、陛下は既にお待ちです、と言い返すだけだった。
 もう待っているというなら、その前に行きたい場所があるとは言い出せなかった。こんなに早くから用意をして、かの国王が自分の到着を待ちわびているとわかれば。
 そういうわけで、ゼルは彼女と共にまっすぐここへやって来たのだ。その彼女もゼルを部屋に入れると、自由にくつろいでいてかまいませんと言ったきり、すぐに引き返していってしまった。あの時は一緒に部屋に入って、国王陛下の準備が整うのを報告してくれていたはずだが、今回は勝手が違うのか。
 小さめの椅子を引いて、おそるおそる腰を預けた。くつろいでいいとは言われたが、どうもひじ掛けまでついたものには手が出せない。いつあの紋章が割れ、中から誰が出てくるかもわからないのだ。
 今度はおれだけだ。隣り合う仲間も、ましてあの大貴族もいない。失礼のないように気をつけないと、せっかくの幸運が台無しだ。
 座ってじっとしていることすら耐えられず、ゼルは椅子を離れ外套の裾をはたきながら、王都を見下ろす窓に歩み寄った。控えの間とはいえ、ここも王が利用する部屋だ。下宿からの眺めには遠く及ばない、街もその外側の畑さえも一望できる。難点を挙げるなら、この窓は縦に細長いため、遠方まで見えても横の範囲は非常に狭いものだった。
 低いところを雲が流れているのか、ゼルが辿ってきた緩やかな丘と一面の畑には、大小の黒い影が泳いでいた。影が地を走っていくのは、村でも時々目にしていた。それを高いところから見るのは初めてだ。まるで自分が雲の上にいるようだった。
 時を忘れるような景色に沈んでいたゼルにとっては、些細な物音も突然背を押されるのと同等の威力を持っていた。
 足音だ。それはもう扉の前に迫っていた。ゼルはまず紋章の彫り込まれたほうに目を凝らしたが、厚い両扉はぴったりと閉じ合わされている。
 こっちじゃない? 自然ともう一つの扉へ顔が向く。小さく音を立て、部屋と廊下を隔てる板がこちら側に押されてきたのはその瞬間だった。
 彼女が戻ってきたのか。その予想はしかし、踏み込んできた革の長靴の下敷きとなった。
 ゼルは我が目を疑った。訪れた人間の後ろで、扉が閉められた音もその耳には届いていない。足を一歩下げると、かかとが壁にこすれた。
 別人などではない。暗く濃い青色の外套。長い黒髪。それだけなら似た貴族は多くいるだろう。だがあれだけは偽りようがない。この国でただ一つの、深く輝く緑の宝石だけは。
 淀みを奥に秘めながらも透き通った金の双眸が、ゆっくりと開いた。
 フェルティアード。どうしてあんたがここにいるんだ。
 鼓動を早める胸を静めたかったのだが、大貴族から気を逸らせたくもなかった。まさかここで何か注意をされたりすることはないだろう。そうわかっていて、彼に敬いの言葉すら使わなくなったゼルでも、なんの連絡もなしにこの男が姿を現すのは心臓に悪かった。
 いや、よく考えろ。ここは陛下にお会いする人が必ず入る部屋だ。ならフェルティアードだって、きっと陛下に用があって来たんだ。陛下がおれのあとに約束を取り付けていただけなんだ。そうとも。待ち時間が重なっただけで。
 しかしそこで、ゼルは待ち合わせの刻限を思い出した。かなり早くに着いたにも関わらず、ゼルはここに通された。それなら、先に用事があるのはフェルティアードではないか? 彼のことだから早すぎず遅すぎず、一定の余裕を持って指定の場所に足を運ぶに違いない。
 長身の躯体が動いた。その歩き方に、少なからず違和感を覚える。注意深く見るのが彼しかいないため、動作がおかしいと感じることができたのだ。そうでなければ気にとめることもないくらい、ごく普通の歩みだった。
 ――あの傷か。自分よりも深いはずなのに、はた目には怪我人に見えない。あの服の下には、今も包帯が巻かれているのだろう。
 フェルティアードは、以前も座った椅子の前で止まった。ゼルとの距離はその分縮まっている。広い背もたれの厄介になる様子はない。ゼルは視線を合わせぬよう、謁見の間の出入り口や窓の外ばかり見ていた。
 こちらから話すことなど何もない。だが、あいさつぐらいはすべきだったろうか。こうも間を置いては、それすらも切り出すのが難しいのだが。
「ル・ウェール」
 悪寒に似た感覚が背筋を走った。それは首にまで達すると、本当は背けたいゼルの心を無視してその瞳に一人の男を映させた。
「陛下なら時間になるまでお出でになられんぞ」
 ゼルは眉をひそめた。
「おれは、陛下がもうお待ちになってるって聞いて来たんだぞ」
 陛下がお越しにならないのなら、どうしてこんな早くに呼ばれたんだ? そうとわかっていながら、この男もなぜわざわざ。
「畏れ多いことだが、陛下に一芝居打っていただいた。おまえを呼び出すためにな」
 一芝居だと? ゼルの中で、国王からの賞賛に対する期待が、一瞬で正反対のものに変貌した。
 そうだ、この男はおれを訴追する手を持っていたじゃないか。フェルティアードという貴族に使った暴言、命令に反しようとした行動。こうしておれと面と向かっているのは、それらを陛下に進言しない代わりに、何かおれに不利な条件でも呑ませようとしているからか? こうなると、そもそも陛下はおれに賛辞をくれる予定などなかったんじゃと思えてくる。
「おれに用があるのはあんただってことか」
「その通りだ」
 こつ、と一歩だけ、フェルティアードが近づく。ゼルは諦めて深く息を吸い、吐き出した。
「いいさ。おれはあんたに、兵にあるまじきことばっかりしてきたからな。あんたに都合のいい取引だろうがベレンズ追放だろうが、断るつもりはないよ」
 馬鹿なことしたもんだな、と叔父の言うのが目に浮かぶ。彼はきっと本気で怒ったりはしない。むしろほっとするだろう。
「……おまえは何か勘違いしているようだな」
 どこか楽しんでいるような、フェルティアードの声色。しかし、その表情は硬く冷たいままだ。
「わたしはおまえに罰を受けさせるために来たのではない。わたしの提案を受け入れるなら、陛下もおまえにお会いになる」
 ゼルは悟られぬ程度に首を傾げた。
「提案?」
「おまえはおまえの望みを成し遂げるために、協力者がほしいとは思わんか?」
 おれの望みに、協力? 自分を責めるでも、ここから追い払おうとするでもない男の唐突な発言に、ゼルはついて行けなかった。フェルティアードのほうも、ゼルが理解し切っていないことを汲み取ったらしく、もう一度言葉を変えて言い直した。
「わからんようだな。おまえを貴族にしてやると言っているのだ」
 今度こそ、その意味はわかった。だがそれだけだった。今のは本当に自分に対して言ったことなのか? 何かを言おうとするものの、我が身に降るとは思わなかった申し出に潰され、その隙間から這い出てきた粉々の感情には、言葉を形成する力などなかった。気付けば、開いた口からは言語にすらなっていない音しか流れていない。
「無論、将来的にの話だがな。どれだけの地位までのし上がるかはおまえ次第だ」
 どういうことなのか問いただす間は十分にあった。しかしゼルは何も言い出せず、ただフェルティアードの言流に身を任せてしまっている。
「その手始めとして、おまえをわたしの騎士に迎える。これがわたしなりの礼だ」
 ゼルがようやく反論の余地を見つけたのはその時だった。
「なっ、何言ってるんだ! あんただって知らないような村から来たやつが、突然大貴族の騎士になんかなれるか!」
 何か企んでいるのではないか。あまりに巨大な幸運は、ゼルに疑心しか生じさせなかった。
「それに何回言わせればわかるんだ。おれはあんたが嫌いなんだぞ。いくら最高位だからって、そんなやつのところに行きたいとは思わない」
 権力を欲する者なら、喉から手が出るような賞与だった。たとえそれが恐れられ、冷徹だとされる男の元であってもだ。そんなものは、まばゆい支配階級への道筋がその威光で見えなくしてしまう。
 だがゼルは違っていた。付き従う相手が何よりも重要だった。自分を権力者として形成していくのは、権力そのものではない。自分に力を添えてくれる人々なのだ。
 そんな彼は、男の目に一体どう映ったのだろう。
「言っておくが、今おまえを騎士にできるのはわたしだけだ。次にいつ、手柄を立てられるほどの戦が起こるかは誰にもわからん。残りの兵役期間中に大規模な戦争が始まるのを待つなど、分の悪い博打だと思うがな」
 確かにそうだ。手柄を元に騎士になるのが難しいことは、ゼル自身もわかっていた。それを考えれば、フェルティアードを助けたという成果は捨てがたい。
「それに、今回おまえが成したことを考慮すれば、陛下はおそらく騎士となるおまえに、まさか最下位の称号はお与えにならないだろう。ウォールスはくだらないはずだ」
 ウォールス。確かそれは、最も低い位であるセンティーツの、一つ上を示す宝石の名だ。ほとんどの騎士は、まず薄赤い宝石をその胸に飾ると聞いた。それよりも上の階位で、しかも唯一のジルデリオンの騎士となる。ゼルがこの大貴族をひどく嫌っているという点を除けば、この上なく見事な褒賞なのだ。
 騎士とて立派な貴族階級だが、ゼルがその身を置きたいのはさらに上の階位だった。これを逃せば、上位の貴族どころか騎士への道も絶たれていまう。
 ゼルは、フェルティアードをもう見上げていなかった。思案に伏せられた頭を、男は静かに見下ろしている。
 これから生きていく中で、自らの意見と合わなかったり、反する者に会うのは避けられないだろう。それが自然だ。ならば、彼がその一人目ではないだろうか。
「どうする」
 そんな声を聞いても、ゼルは焦らなかった。既に腹は決めていた。この男につくことが夢への最初の試練と考えるならば、楽なものではないか。
 顔を上げ、真っ直ぐに大貴族を見る。二つの青色は、いささかも揺れてはいなかった。
「なるよ。あんたの騎士に。あんたがおれを貴族にしてくれるなら」
 重々しく吊り上がった眉はそのままに、フェルティアードは口だけを笑いの形に歪ませた。
「おまえがその誠意を見せるならな。貴族たる器でないと判断したら、わたしは遠慮なくおまえを切り離す。そのつもりでいろ」
 フェルティアードはそう言うと、苛立ちのにじんだゼルの顔色を認めることなく背を向けてしまった。彼は紋章のない扉へと一人で歩いていく。
「お、おい、どこ行くんだよ。陛下に会うんじゃないのか?」
 取っ手に手をかける寸前で、男は振り向いた。ゼルも早足の速度を落とす。
「まだ時間ではないと言ったろう。おまえの心配事を片付けるのが先だ」
 おれの心配事? 口にする前に、フェルティアードは扉を開け外に出て行ってしまう。
「何をぼうっとしている。おまえがいなければ話にならんのだぞ、ゼレセアン。早く来い」
 意外過ぎる文字列は、ゼルの歩みを妨げさせた。ゼレセアン、と言ったのか? 今、あの男は。
 当の本人は特に気にした様子もなく、ついて来ないゼルに呆れたのか、靴音を響かせ階段にさしかかろうとしていた。