狼の騎士

第三章「フェルティアード」 第五節

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 廊下の壁際で、二人の貴族が立ち話をしている。その片方がフェルティアードだと認めた時、ゼルは心の中でゲルベンスに謝辞の雨を降らせながら、さらに駆け足を早めたい衝動に駆られた。だがここで音を立てて走ったら、また何か言われるに違いない。ゼルはやや速度を落とし、早足に切り替えた。
 完全にこちらに背を向けているわけではないが、フェルティアードの視界にゼルは入っていないだろう。話しているもう一人が、一瞬だけゼルに目をくれる。フェルティアードは、それを追って振り向くことはなかった。
「フェルティアード卿」
 ゼルは、そう口にしたところで立ち止まった。だが、少し早すぎたようだ。ゼルと彼とのあいだには、面と向かって話すには大きすぎる隙間ができていた。
 呼ばれた大貴族は、まず瞳だけをゼルに向けた。足先から頭まで、凍えるような風が舐め上げてくるのにも似た感覚。回数は少ないにしても何度も会っているはずなのに、彼からあふれ出る重圧感は少しも減ってはいない。気軽にしてくれ、と言ってくれたゲルベンスと会った直後ということもあって、堅苦しさは倍に感じられた。
「何の用だね、ル・ウェール」
 外套をゆらめかせ、フェルティアードはわずかに体の向きを変えた。真摯にゼルの話を聞こうとするようには見えない。その声にも、煩わしげな色が込められているようだ。
「卿への至急の言伝を賜って参りました」
 フェルティアードに負けじと、ゼルも背筋を伸ばした。伝言を述べるだけなら、いくら彼でも注意するところなど見つけられないはずだ。今日ばかりは、自分に礼を言うしかできないに決まっている。
 ゆっくりと開いた口が、言葉を紡いだ。
「神殿に来て欲しいということなら、今しがた聞いたが」
 今度は、内側から体を凍らせられたかと思った。開きかけていた口も閉じられていないゼルに、フェルティアードの話し相手が声をかけた。
「すまないね。そのことについては、たった今わたしが彼に伝えたのだ」
 手柄を横取りしてしまったようだな、と申し訳なさそうに呟かれた台詞すら、理解するまでにじっくり二呼吸分は消費した。
 あれだけ探し回って見つけたのに、すべて無駄に終わってしまったのか。フェルティアード卿に会い、用を伝え、礼をして彼の元を去る。その些細な、しかし何度も頭の中で反復した予定が、こうもたやすく崩れるとは。
「用はそれだけか」
「……はい」
 声を張らせることなどできなかった。低い位置に落ちた視界には、すでにフェルティアードの顔は映っていない。村で暮らすだけなら一生必要としなさそうな、素人目にも高価だとわかる彼の軍服。それと壁の模様を見て気を紛らわせ、ゼルは早急にここから離れようとした。
「こんなに時間を要しては、至急の意味がないとは思わんか。ル・ウェール」
 その一言に、今日これまでの行動を否定された気がした。そしてそれは、ゼルにとってはさらに気落ちさせるものにはなり得ず、逆に怒りの元となって、彼の顔を跳ね上げさせた。
 こっちだって、できる限りの手を尽くしたんだ。わざとゆっくり来たわけでもないのに、理由も聞かずに言いたいことを言って。好きで急ぎの用を先延ばしにするやつがいるもんか!
 そう言おうとして、一息に空気まで吸い込んだが、結局その感情が言葉を伴って出てくることはなかった。口にしたところで、もっと辛辣な答えが返ってくることは、なんとか耐え抜いた理性でも予想できたし、何より暴言以外の何物でもない。だからゼルは、唇が震えるのを隠すために歯を食いしばり、フェルティアードを睨み上げるに留まった。
 いや、本人にそのつもりはなかった。だが二人の貴族の反応を見れば、睨むという行為に相違なかったことは明白だ。どちらとも、ゼルの表情に目を丸くしていた、という点では同じだったが、それぞれ微妙に違う部分もあった。
 一足違いで伝言を先に告げてしまった貴族は、この大貴族に喧嘩を売る気か、とでも言いたげに、ゼルから目を離していなかった。そして当の大貴族は、まさかこの青年が、自分の言葉で怒りの表情を見せてくるとは思わなかったらしい。いつもよりも開かれた目で――おそらく意表を突かれたのだろう――彼はゼルを見下ろしていた。
 しかしそれも一瞬で、身を切るような琥珀色の瞳がゼルを一瞥すると、フェルティアードは話していた貴族に短く別れのあいさつを残し、身を翻して行った。
 逃げるのか、と後を追おうとした足を止めたのは、ゼル自身だった。逃げるも何もないではないか。フェルティアード卿は、自分も伝えようとしていた急用とやらに向かったに過ぎないのだ。
(何熱くなってるんだ。しっかりしろよ)
 フェルティアードがいなくなって、ゼルはさざ波の立った心が穏やかになっていくのを感じていた。自分がしようとしていたことが、どんなに馬鹿らしいことだったかもわかってくる。何度目かわからぬため息をついたが、今のは自身を落ち着かせるためのものだ。
 とにかく、もうここに残ってもしょうがない。多分デュレイとエリオも、それぞれの下宿に戻っているだろう。
「失礼、ル・ウェール君?」
 ゼルは心臓が飛び出るかと思った。貴族が一人残っていたのを、すっかり忘れていたのだ。その振り向き様は、呼びかけた貴族までたじろぐほどだった。
「はっ、はい! 何でしょうか」
 ゼルはその貴族を見上げた。フェルティアードより背は低かったが、平均的な身の丈だ。ゼルが小さいので、首を上に向けなくてはならなかっただけだ。
「わたしはシャルモールという。きみには本当に悪いことをしたね」
 するりと音を立て、色の濃い茶髪が肩を滑った。ゼルに対し礼をしたのだ。目上の者にするような、深々とした礼ではなかったが、ゼルに驚きから来た鳥肌を立たせるには十分だった。
「そんな、とんでもないです! それに、頭を下げて頂かなくても」
 どう言葉を選んでいいかわからないゼルに、面を上げたシャルモールはゼルと目を合わせた。きっちりと分けられた前髪の下で、黒瞳が優しげに輝いている。やや頬がこけているせいで、本当の歳より上に見られそうな気がした。
「きみは、フェルティアード卿の?」
「はい。ゼレセアンといいます」
 短い問いだったが、それが“フェルティアードの指揮下の者か”どうか、という意味だとわかったので、ゼルは自分の名も添えて答えた。シャルモールはそうか、と頷き、髭で覆われた顎を指でなでる。
「彼のことを好いてはいないようだね」
 つい彼を見つめてしまっていた。確かに強い尊敬の念を感じたことはないが、なぜ会ったばかりの彼にわかるのだろう。ゼルにはわからなかったが、先ほどのゼルの目つきを見た者なら誰でも、この青年がフェルティアードにいい感情を持っていないことは明らかだったろう。
 そんな風に見られていたとは露知らず、ゼルは返す言葉に迷っていた。まさか己の師となっている貴族について、本心のままの気持ちを話すことは、さすがに憚られた。かと言って嘘をつくのも、自分を偽るようで気分が悪い。
 しかし、当の相手はゼルの発言を待っている様子ではなかった。フェルティアードが姿を消した廊下の先を眺めながら、シャルモールは続けた。
「変わってしまったからな……彼は」
 呼吸と聞き間違うかと思ったその声はか細かったが、ゼルの関心がそれに向くのに、声量の大きさは関係なかった。だから、
「シャルモール卿は、フェルティアード卿と親しいのですか?」
 そう聞く直前、彼がこちらに振り向くまでのほんのわずかなあいだ、眩しそうに細められていたシャルモールの目を見ていたゼルは、彼の唇が、大貴族に向けるには到底ふわさしいとは言えない形を作っていたことに、気付くことはなかった。
「いやいや、まさか。わたしなんか彼の足元にも及ばないさ」
 胸元にやった手を下ろす時、ゼルは彼が持つ宝石を見ることができた。貴族の外套よりももっと深い、しかし美しく輝く紺碧。どの辺りの階位だったかは思い出せないが、ゲルベンス卿より二つは下だったはずだ。
「ですが、“変わった”とおっしゃったので。以前は今とは違うお人柄だったのですか?」
 彼が話題を提示したわけではないのに、ゼルはそのことに踏み込んでいった。
 シャルモールは、遠慮がちに口を開く。
「わたしは、貴族になってそんなに年数も経っていないし、昔の彼というのも人から聞いた話なんだ。だからあまり詳しく話しもしないよ。全て真実だと思い込まないでほしい。それでもいいかい?」
 これから向こう二年、ずっと付き合う男なのだ。その長い期間を、悪い印象を持ったまま過ごすことを、ゼルは望んではいなかった。
 フェルティアード卿にについて、何か少しでも知ることができるなら。ゼルはためらわずに「お願いします」と答えていた。
「それじゃ、少しだけ。フェルティアード卿は、それはそれは勇ましい戦士だったそうだ」
 おとぎ話のような語り口にゼルがくすりと笑うと、シャルモールの口も緩やかな弧を描いた。当然、ゼルが見ることのなかったあの笑みとは異なっていた。
 彼の口にしたことは、その口調もあってすんなりと頭に入ってきた。しかしそれの意味するところは、“今はそうではない”ということだ。
「特に国王陛下に対する忠誠心は人一倍厚く、今現在の地位に上りつめる前から、彼は“国王の牙”と呼ばれていた。陛下に仇名す者があれば、それを排除し陛下を守ろうとする。まるで伝説に出てくる銀狼が、人になって現れたようだと言われていたらしい」
 彼は黒髪なのに、初代キトルセンに力を授け、共に戦ったという銀の狼に例えられるなんて。そのくらい、彼の勇猛さには目を見張るものがあったんだろう。
 しかしね、と続いた押さえ気味の声に、ゼルは改めてシャルモールの目を覗き込んだ。
「この銀狼は、かつて邪悪なる者に、呪いをかけられていたという。戦い勝利するほどに、身を石に変えられる呪いだ。かくして彼は一線を退いたが、陛下は彼を石像としてお残しになったんだ」
「石像?」
 初対面の貴族に対する言葉としては、留意が足りなかったかもしれない。だがシャルモールは、ゼルの反応に首を縦に振っただけで、咎めることはしなかった。
「そう。陛下に刃を向けようとした者がひるむような、恐ろしい石像だ。陛下は伝説として、“国王の牙”をこの王宮に掲げ続けているのさ」
 これでわたしの知ってる昔話は終わりだ。シャルモールはそう言い、懐から手に収まるほど小さな何かを取り出した。
「おや、もうこんな時間か。ゼレセアン君、そろそろ刻限だ。早めに出たほうがいいぞ」
 彼の手中にあったのは時計で、ゼルにも文字盤を見せてくれた。ゼル達一般兵士が王宮に居残ることができる時刻を、短い方の針がそろそろ指そうとしている。
「本当だ。ご親切に感謝します、シャルモール卿。では、失礼致します」
 やっぱりそんな時間になっていたか。ゼルは焦りを感じて、王宮を去ることを第一に考えることにした。
 シャルモールの昔話は、その言葉通りにとっても理解しづらいものだった。きっと民の中に広まっていくうちに憶測や思い込みが連なり、今のフェルティアードを体現するに丁度いい形に落ち着いた結果なのだろう。
 本当はもっと聞きたいことがあった。しかし、話を終えると同時に時計を出したところを見ると、彼にもこの後に用事があるようだ。
 ともかくこれで、フェルティアード卿が大貴族の名に恥じない活躍をしてきたことはわかった。あの手厳しさの理由は謎だけど。
 シャルモールが時計をしまうのと、ゼルが礼をしたのはほぼ同時だった。顔を上げる瞬間、彼の腰の辺りに、拳銃が収められているのが見えた。
 そういえば、貴族が持つ銃を初めて見た。王宮内だから弾は入っていないのだろうが、剣とは違う艶に、ゼルは一瞬目を奪われていた。
「ああ、ゼレセアン君」
 別れを告げるようにゼルの外套がはためいた時、シャルモールが引き止めてきた。ゼルが振り返ると、表情を固くした貴族がいた。さっきの話の続き――ではなさそうだ。
「もうしばらくしたら、フェルティアード卿は戦地に向かわれるかもしれない。きみも覚悟していたほうがいいぞ」
 戦地と聞いて、ゼルは身が強張るのを感じた。いつの間に戦が始まろうとしていたのか。戦争となったら、街はすぐその話で溢れてしまう。それを欠片も耳にしていなかったので、戦をすると決まったのは、つい最近なんだろう。
 いつかは来ると思っていた出兵が、こんなに早い時期になるなんて。叔父さんに手紙を出しておかないとな。下宿に戻って、まずやることを決めたゼルは、再びシャルモールに謝意を告げた。
 期待と興奮、そして一抹の不安を、ゼルが抱えているなどとは知らないシャルモールは、小さな青年が手近な裏口へ早足になるのを眺めて、踵を返した。
 彼が足を踏み入れた廊下は比較的細く、窓からの明かりも届かない。奥に進むにつれ光が薄らいでいくなか、彼は呟いた。不気味なほどに薄い笑みを浮かべながら。
「石像に成り果てても、そこに在るのなら同じこと。我らの障害ならば、砕かねばなるまい」