狼の騎士

第三章「フェルティアード」 第四節

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 ゼルはまず下宿に戻り、外套と皮手袋を引っつかんで王宮へ走った。今回はいつものように兵として赴くわけではないので、剣は持たなかった。門番には兵の証である、ベレンズの紋章が描かれた札を見せ、早足で入り口へと進んだ。試験の日は人気のない庭だったが、今では騎士や女官が散歩を楽しみ、庭師が草木の手入れをしているのも目に付く。
 大貴族である彼の部屋は奥まった場所にあり、しばらく歩かなくてはならなかった。彼の態度に難癖をつけられても、部屋の場所にまでは文句は言えない。それに、彼が部屋にいる可能性はまずなかった。
 扉のいかめしい装飾は、今ではフェルティアードの態度そのものを表しているように見えた。ノックをする前から、ゼルは諦めの混じったため息をつき、あの取り付けられた鉄の輪で戸を叩く。間を置いてもう一度叩いてから、またため息をついた。
(まあ、忙しいんだろうけどさ……)
 こうもつかまらなさ過ぎるのも困るのである。
 今度ばかりは自分ではなく、フェルティアード本人に対する、しかも至急の用なのだ。廊下で会う人々全員に、彼の所在を聞いて回るゼルの足取りは、焦りから次第に早くなっていった。
 こういう時に限って、有力な情報が得られないものだ。見かけたという場所に行っても本人はいない。懐中時計などという高価なものをゼルが持っているはずもなく、王宮に入ってからどれだけ時間が経ったのかさっぱりだ。これでは、一般兵が王宮に留まれる刻限になる前に、見つけることはできないのではないか。
 ゼルは、そんな不安を募らせる自分を少し可笑しく思っていた。相手はどうも好きになれない人間なのに、なぜこんなにも必死になっているのだろう。たった今侍女から聞いたフェルティアードの行方を、一瞬だけ頭の端に追いやって考えてみる。答えは案外すぐにわかった。自分は、自分の感情と成すべきこととは、切り離して考えているのだ。
 気に食わないからって、フェルティアード卿が不利になるように、やらなきゃいけないことを放棄するなんてできない。大体この用件は自分が進んで引き受けたんだし、その責任はちゃんと――
「わっ!」
 どうも考え事に没頭し過ぎていたらしい。廊下の角からぬっと現れた影に気付けず、早足どころか駆け足になっていたゼルは、盛大に正面衝突してしまった。
「おっと! 大丈夫かい」
「す、すいません」
 じわじわと痛み出した鼻を押さえ、ゼルは相手の顔を見たが、にじんだ涙で歪む視界では、色の判別しかつかなかった。どこかで見たことのある髪の色。ゼルには、まずそれしかわからなかった。
「したたかぶつけたみたいだな。血は出てないか」
 声のする場所が低くなった。わざわざ自分のためにしゃがんだようだ。泣いたわけではないが、涙を見られるのは恥ずかしい。急いで両目を腕で拭き、「大丈夫です」と力を込めて答えた相手は、剣術試験の時ゼルを部屋に案内し説明をした、あの偉丈夫だった。
「おや、きみは確か試験で」
 夕日のような髪と口髭に鋼色の瞳は、間違いなくあの時の貴族だった。何より、彼の今の言葉が裏付けている。しかしゼルはにわかには信じられなかった。試験時に一時だけ見せた、緊張を解くように和らいだ顔。それよりさらに緩んだ笑顔が、目の前にあったからだ。
「はい。あの時はお世話になりました。あの、私のほうこそ、ぶつかりなどしてすみませんでした」
 立ち上がった彼を目で追いながら、ゼルはまだむずむずする鼻をもんだ。やはり背の高い人だ。その上横幅も大きい。フェルティアード卿もそれなりに体格がよかったが、この人の前では平均的に見えてしまう。
「なあに、おれなら鎧を着た兵士がぶつかったってびくともしないさ。えっと……、確かゼレセアン、だったかな?」
「へっ? えっと、はい、そうです」
 つい素っ頓狂な声を上げてしまったが、彼は気にも留めていないようだった。頭をかき、探るようにゼルを見回す貴族が、自分とは軽く二十は歳が離れているはずなのに、まるで同年代のように感じる。
 それにしても、彼はなぜ自分の名前など知っているのだろう。そんなに目立つ名前だったのか。
「本当に大丈夫か? 鼻」
「えっ。はい、なんとも……」
 なくないですけど、と続いた呟きは、無意識のうちに鼻を覆っていた手の中に吸い込まれた。かの貴族は眉をひそめ、嘘ついてないか? と心配そうな眼差しだ。
「でもなあ、そう言うやつに限って、重症だったりするんだよな。念のためだ、医務室に連れてってやるよ」
「いえ、あのっ」
 否応なく肩を抱かれ、歩かせられる。心配してくれてるのはわかるが、いささか強引だ。
「さすがに大げさすぎて嫌か? 医務室は」
 歩くのに多少遅れを取ったのを、ささやかな抵抗と受け取ったらしい。彼はすぐに足を止めた。これで用事があることを伝えられると、ほっとして口を開こうとしたのだが、それもつかの間だった。
「ああ、おれの部屋によく効く塗り薬があるんだ。そっちにしよう」
 友達でも連れ込むのかとゼルが勘違いしそうになるほどの、気軽で明る過ぎる言葉だった。彼は大股に歩き出す。いや、ゼルがそう歩かざるを得なかっただけで、彼は普通の歩幅だった。
 ゼルはもう一度この状況を見直して、自分は彼の友人などではないし、たかが鼻を痛めた程度で薬なんて、しかもそのために大貴族の部屋に行くなど、できるはずがないと言い聞かせた。
 そう、この貴族と話すあいだ、ゼルは彼の外套を留める金具の中心で輝く、宝石の色をしっかりと確認していたのだ。それが、フェルティアードのジルデリオンに次ぐ階位を表す紫の石、ヴェルディオであることを。
 お邪魔するなんてとんでもないとか、自分はただの兵士ですとか、やっと口に出せた自分の意見が少しずつ、断るための理由ではなくなってきているような気がしたが、とにかくゼルは彼に対し、あなたについていけない、と伝えたかった。だが当の本人は楽しそうに笑い、
「気にするな。同じく陛下に仕えてる身だ、上も下もあるものか」
 と、取り合ってくれない。試験場の彼とはえらい違いだ。どちらが本当の顔なのだろう、と困惑もした。でも、きっとこっちが素顔なのだろう。これが繕ったものだったとしたら、ある意味フェルティアード卿より恐ろしい。
 とにかく、このまま彼と一緒に行くことはできない。フェルティアード卿への至急の言伝があるのに、ゆっくりしている暇などないのだ。好意を示してくれた彼には、少しばかり悪いと思ったが、ゼルは声を大にして彼に事情を話すことした。
「あの! 真に申し訳ないのですが、急用がありまして」
 自分の肩をすっかり覆っていた大きな手から、さっと力が消えていくのをゼルは感じた。それに合わせて歩くのをやめると、彼もそれに倣う。
「ああ、それで走ってたのか。すまないな、無理強いさせちまって」
 彼はゼルから離れて間を置いた。どうやら解放してくれたようだ。
「いいえ、とんでもないです。……あの」
「なんだい?」
 せっかくなので、フェルティアード卿の居場所を、彼にも聞いてみようと思った。しかしゼルは、そこで言葉に詰まってしまった。彼の名を言おうとしたのだが、そういえば名前など聞いていなかった。向こうは自分の名を覚えていたようだったが。
 突然質問するのもぶしつけな気がする。だが彼は、自分が発言するのを待っているはずだ。厳しさの欠片もない、彼の柔らかな笑みが、今のゼルにとっては重しになっていた。
「おっとそうか、きみはおれを知らないんだったな。おれはゲルベンスだ」
 どう切り出そうか迷っていたゼルに助け舟を出したのは、そう名乗って素手を差し出してきた彼本人だった。
「ゲルベンスのヘリン・ディッツ。よろしくな、ゼレセアン君」
「あ、よろしくお願いします、ゲルベンス卿」
 ゼルはその手をおそるおそる握ったが、ゲルベンスの方はがっちり力を込めてきたので、指の一本も動かせなかった。それに差が大きすぎて、自分の手など爪の先しか見えていない。にこにこと笑っている辺りから、これが彼の普段通りの力らしい。
「で、おれに何か?」
 急用がある、と告げて口ごもったので、自分に聞きたいことがあると予想していたようだ。ゼルは手袋をはめなおしてから、ゲルベンスに顔を向けた。
「はい。実は今、フェルティアード卿を探しているんです。どこにおられるかご存知ではありませんか?」
「ああ、あいつなら確か、誰かに呼ばれたって言って、あっちのほうに行ったな」
 と、ゲルベンスが指差したのは、ゼルが目指していた方とは正反対だった。当のフェルティアードはそこにいないのに、思わず彼の指先を目で追ってしまう。彼に会っていなかったら、またいない場所へ行くために体力を消耗するところだった。
 今までは誰に聞いても、その情報の最後に「多分」とか「おそらく」とか、欲しくもない言葉がついて回った。ゲルベンスにはそれがなく、ゼルには確証に満ちた返答であると感じられた。
(そうか、この人はフェルティアード卿のことを)
 なぜこんなにも信じられる気になるのか、ゼルも最初はわからなかった。その根拠がゲルベンスの、フェルティアードに対する言葉の中にあったことに気付いた。
「ありがとうございます、ゲルベンス卿」
 そんなことに頭を使うよりも、ゼルは眼前の大貴族に礼を言うことを優先させた。一歩引いて、深く頭を下げる。
「あいつ自分の部屋にずっといることなんかないから、きみらも大変だろう。そうだ、ゼレセアン君」
 はい、とゲルベンスと目を合わすと、彼はとびっきりの知恵が浮かんだとでも言うように、親指で自身を指した。
「あいつがどうにも見つからない時は、おれのとこに来て聞いてもいいぞ。おれもいつも部屋にいるわけじゃないが、フェルティアードよりはよっぽどいる方だ」
 それを聞いて、ゼルはつかえていたものが外れたような、すっきりした気分になった。フェルティアード卿にたどり着く道は、今までは不安定だったが、この人のおかげでぶれることがなくなりそうだ。
「では、今後は是非そうさせて頂きます。重ねてお礼申し上げます、ゲルベンス卿」
 また礼をすると、おいおい、と心底つまらなさそうな声が降ってきた。意識するより先に、鼓動が速くなる。さっきと何も変わらない礼をしたはずだが、何か間違えたのか。
 姿勢を正そうにも、体はすっかり固まってしまっている。それにさらに追い討ちをかけたのは、頭部に降りた温かさだった。
「そうかしこまられるのは苦手なんだ。おれ自身と、フェルティアードの指揮下にいるやつにされるのが、特にな」
 あの巨大な手が、自分の頭に乗せられている。それに気付いた途端、ゼルは平衡感覚を失って倒れ込むかと思った。前後左右、どの方向に倒れるかも、自分でわからないほどに。
「礼儀正しく気ぃ使うのもいいが、おれにはそこまでがちがちにならなくていいぞ。なあ、ゼル君」
 がちがちにさせてるのはあなたです! とゼルは叫びたかったが、縮こまった舌では、それすらもかなわない。そのうえ、彼はデュレイやエリオのように、下の名前を短くして呼んできた。ここまでされては、この貴族が取りたがっている立場に報いる態度を示さなければ、逆に失礼というものだ。
 だが、突然そんなことを言われても、すぐに切り替えられることなどできない。自力で硬直を振りほどき、やっとの思いでゲルベンスと視線を合わせると、
「こ、今後とも頼りにさせて頂きます」
 ゼルはそう言うだけで精一杯だった。
 その言葉から、ゼルなりに堅苦しさを排除したのが伝わったのか、ゲルベンスは笑って腰に手をやった。
「ありがとよ。いらん足止めを食わせちまったな。さ、行ってきな」
 顎で合図をされ、ゼルは「失礼します」とゲルベンスに背を向け、廊下を駆けた。小さな背中が角を曲がって見えなくなると、彼もまたその場から去っていった。