狼の騎士

第三章「フェルティアード」 第三節

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 そのきしんだ扉の音は、聞く者に壊れそうだ、といった不安を抱かさせることはなく、逆に重ねてきた歴史を感じさせるようだった。
 ゼルはその音に、入る時こそどきりとしていた。だが今は、エリオが扉を押し開ける様子と、彼に案内された神殿の内部を、振り返ってもう一度見回す余裕ができていた。
 王の間のものと似た造りの柱とは別に、大広間を挟み込むように通った廊下の壁側には、エリオの言っていた彫刻が並んでいた。彫ったものを置いたのではなく、石壁から直に彫り上げたようだ。廊下の先の部屋は神官しか入れないが、名のある彫刻師が作り出したのであろう作品は、すべて見ることができた。
 入り口から数歩進んだところから祈りを捧げる祭壇まで、優に三十脚は越える長椅子が整然と置かれている。敷物はなく、祭壇までまっすぐたどり着ける通路が長椅子によって縁取られているのは、神官が行う儀式のためだろう。
 そして顔を上げれば、描かれている絵も見えないほどに高い、吹き抜けの天井が広がっていた。あの絵画は、二階部分の窓際に通っている通路に上がれば見えるのかもしれない。
 窓は、無色透明のものと多彩な色のガラスから成っていて、そこからは屋外に負けじと、大量の光が取り入れられていた。
 それでも、若干暗いのは避けられていなかったようだ。開ききった扉から真っ直ぐ届いた日差しの直撃は、三人の目を細めさせるにはたやすかった。一緒に流れ込んできた風は、もうすっかり暖かくなっている。
 ようやく休日が重なった三人は、まずこのキトルセン大神殿にやって来ていた。同じ隊のエリオとなら、すぐに来ることができたのだが、ベレンズを案内したがっていたデュレイの存在を、ゼルは無視することができなかった。出会いのきっかけを理由に、デュレイも一緒になれる機会を作りたい、という旨をエリオに話すと、彼は笑顔で了承してくれたのだった。
 おかげで、当初の予定よりかなり遅れてしまったものの、大神殿をはじめ、デュレイの小さな王都紀行は順調に進んでいた。
 広場に出たゼル達は、並んで門へと歩き出した。ベレンズに着いたあの日、ゼルが神殿と一緒に見たあの門だ。広場の奥にある噴水目当てなのか跳ね回る子ども達や、祈りを捧げに来たらしい年配の人々とすれ違う。今日まで何度かこの敷地前を通ったが、その時より人が多くいるように感じるのは、この天候のせいもあるのだろう。
 昼時も近かったため、ゼルたちは食事をとることにした。ここでもデュレイが、とある一軒の店を推すので、迷わずそこへ向かうことになった。道中、見知った道のりに気づいたのか、エリオが「ぼくもおすすめの店だよ」とこっそり教えてくれた。どうやら、ベレンズになじみがあれば、誰もが知る名店のようだ。
 街道の交差点に面したその店は、席の大半が屋外にあった。店内はそれほど広くはないらしい。混み始めてもいい時間帯ではあったが、席の数が多いせいもあるのか、そんな様子には見えなかった。
 席に着いたゼルは、店員がテーブルに置いた簡素な冊子を覗き込んだ。食事や飲み物の名前が並んでいたが、どれもこれも美味そうに見えてくる。デュレイとエリオはお気に入りが決まっているらしく、おかげでゼルは、思う存分メニュー表を睨むことができた。
「デュレイ!」
 聞き覚えのない声が友の名を呼んだので、ゼルはついその方向を向いていた。客がまばらに座る席の向こう、街道から走ってくる人がいる。
「あれ、ミックじゃないか」
「同じ人に教わってるのか?」
「いや、下宿が近くてね。時々会うんだよ。やあ、ミック!」
 長く走っていたのか、顔を赤くし息を切らしているミックという青年は、空席にぶつかりながら歩みを緩め、デュレイの前で長い深呼吸を一つした。跳ねの目立つ短い黒髪は、走っていたせいなのか元からなのか、ゼルにはわからなかった。
「よかった。確かきみ、フェルティアード卿のところに友達がいるっていってたよな」
「ああ」
 デュレイはミックの目を見たまま答えたが、残りの二人はお互い顔を見合わせていた。ミックの言う“フェルティアード卿のところにいる友達”は目の前にいるのだが、もちろん彼が気付くはずもない。ゼルは、ここで割って入ってもな、と思い、黙って話の続きを聞くことにした。
「その人をつてに、ウィッセルって人に伝えてくれないかな。なんでも、幹部兵のどなたかが、彼に話があるって」
「えっ」
 当然、声を上げたのはエリオだった。口にパンを含んでいたせいでくぐもってはいたが。
「きみ、ウィッセルって知ってるの?」
「いや……その、ぼく、なんだ」
「本当か! よかった、すぐ見つかって」
 安堵に満ちたミックの顔は、しかしまたすぐに曇ってしまった。デュレイが声をかけると、ミックは困ったようにぼそぼそとしゃべり出した。
「実はもう一つ、フェルティアード卿の人に頼みたいことがあってね。これは至急なんだ。神殿のある神官が、フェルティアード卿に用事があるらしくて。ぼくなんかより、あの方のところの人ならすぐ呼んでこられると思ってさ」
 エリオは答えあぐねているようだった。それもそうだ。ミックの発言は、指導されているならば、隊長である貴族の居場所はわかるだろう、という前提のもとにあった。自室でなくとも、それ以外によく行く場所を知っていると。
 他の貴族はそうかもしれないが、あのフェルティアードには通用しなかった。直接の指導は、各貴族が所持する幹部兵が行っていたものの、フェルティアード本人に用ができることも度々あった。だが、顔合わせの時に言っていたように暇ではない、というのは事実だったらしく、彼が自室にいたことなど一度たりともなかったのだ。すれ違う騎士や貴族、果ては侍女や給仕係にまで行方を聞いたほどである。ミックが行こうとゼル達が行こうと、そう大差はないだろう。
 そう思っていても、ゼルは口に出すことはなかった。言ったところで、彼の腰が引けるのはわかりきっている。この日を迎えるまでのおよそひと月のあいだ、ゼルは同期の者達が――同じフェルティアードの指導下の者でさえも、彼を恐れていることを嫌というほど感じていた。
 兵に対し厳しいのは、どの貴族も同じだ。しかし、勉学や稽古が終われば、労いの言葉をかけてくれる。フェルティアードは会うことが極端に少ないばかりか、会ったとしても終始あの固い表情、口を開けば作法や礼儀の注意、忠告しか出てこない。指摘してくれるのはありがたいが、神経を逆撫でするような言い草に、ゼルは小さな怒りと共に、疑心も抱いていた。本当にこの貴族は、ジルデリオンという位にふさわしい人間なのか、と。
 一介の地方民が、そんなことを考えるのはおこがましいのかもしれない。だが逆に、一介の地方民にまでそう考えさせるあの態度は何なのだろう、とも思うのだ。
「ウィッセル君の用事は、今すぐじゃなくてもいいんだ。多分その呼んでるって方も、今は昼食の時間だろうからね。ただ、フェルティアード卿のほうはそうもいかないみたいで」
 エリオがここで王宮に出向き、フェルティアードに会った後に彼自身の用を果たすのが理想だろう。フェルティアードがすぐに見つかればの話だが。そうなり得ることがまず不可能なのは、エリオにも簡単に予想できたに違いない。でなければ、答えに詰まったりするものか。
「うん……。わかった、ぼくが」
「エリオ、フェルティアード卿の用事はぼくが行くよ」
 今まで黙っていた青年が声を大にして言うので、ミックはその小柄な男に目を移した。
「きみも、もしかしてフェルティアード卿の?」
「うん。だからエリオ、きみはゆっくり食べてろよ」
 そう告げたゼルは、すでに席を立っていた。エリオはすがりつくようにゼルの腕をつかみ、
「おいおい、きみに教えたくてここに来たのに、本人がいなくなっちゃ意味がないじゃないか」
「だってエリオ……フェルティアード卿がすぐにつかまると思うか?」
 ゼルはそっと声量を落とした。
「あの方を探すのに王宮を走り回ってたら、きみの用事に支障が出るじゃないか。ああ、一応ぼくの分のお金は置いてくよ」
「ゼル、そうじゃなくって……」
 細かい値段までは覚えていないが、十分お釣りがくる分の金をテーブルに置くと、エリオは呆れたようにゼルを見上げてきた。話があるのにうまく表現する言葉が見つからなかったようで、結局エリオはため息をつくだけに留まった。
「じゃあ、フェルティアード卿の件は、きみにお願いしていいのかな?」
「ああ、ぼくが行く。デュレイ、ぼくの分食べていいからな」
「馬鹿だな、そんなに食えないよ」
「嘘つけ、余裕だろ」
 ぽんと彼の肩に手を乗せて、ゼルはせめてもの腹の足しにと、小さくちぎったパンを口に放り込んだ。