狼の騎士

第三章「フェルティアード」 第二節

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 階段を上って通されたのは、控えの間のようだった。ゼル達新兵が入った扉の正面には、王宮の玄関と同じ造りの、二枚の戸からなる部屋の入り口がある。違いといえば、その扉の中心にある浮き彫りのベレンズの紋章が、光を受け輝いている点だろう。
 もし実在したら、人間など丸呑みにできそうなほど巨大な狼の頭部と、それを縁取る蔦と葉。ベレンズに伝わる銀狼伝説が、その由来になっているらしい。ゼルは話の中身を思い起こそうとしたが、結局それは叶わなかった。
 フェルティアードのものと、何ら変わるところのないような豪奢な部屋に、つい目を奪われてしまったからだ。すぐそばに大貴族がいるので、その視線を盗みつつではあったが。
 あの女性も、彼らと共にここまでやって来ていたのだが、彼女は先に謁見の間に入っていっていた。
 一通り部屋を眺めていると、最初こそ豪華だとか高そうだと思えた家具を、ゼルは段々と違う視点で見るようになっていた。絵画を縁取る額、手元を照らすための傘のついたランプ。簡素なそれらしか知らなかったゼルの目には、どうも使い勝手が悪そうに映るのだった。
「フェルティアード卿、国王陛下がおいでになられました」
 頭上のシャンデリアに釘付けになっていた時、紋章の向こうから女性が姿を現した。ゼルが勝手に、これは貴族専用なのでは、と推測していた椅子に、腕を組み一人腰掛けていたフェルティアードがゆっくりと立ち上がる。
「入室する時は一列に、わたしが足を止めて端に移ったら、その横に順に並べ」
 それだけ告げて、フェルティアードが扉へ向かうと、女性が先にそれに触れた。そのまま奥へと開いた扉の向こうには、今までゼルが見た王宮の部屋の中で、一番の広さと高さのある空間があった。
 灰色の敷物に沿って立つ円柱は白く、目を動かしただけでは天井まで見ることはできなかった。両壁に整然と並んだ窓が、内部を照らし出している。
 真正面は前を歩く青年の背が占めていたが、先の方には階段があり、それを守るように貴族らしき男達が数人、立ちふさがっていた。らしき、というのは、彼らの外套は大木の幹を思い出させる色をしていて、ゼルが聞いたことなない風体だったからだ。
 彼らまであと数歩というところで、フェルティアードは歩みを止め、続いて新兵が並ぶ。そこでやっと、ゼルは国王を目にすることができた。
 階段の一番上、ゼル達を見下ろすような場所に据えられた玉座。長すぎる背もたれに背を預けることなく、毅然たる表情で彼らを見ていたのは、若い男であった。おかげでゼルは、危なく“醜態を晒す”ことになりそうだった。
 自分とそう歳は変わらないのでは、とゼルが感じた国王は、デュレイやエリオのような金髪をしていた。その輝きが神々しく見えるのは、全権力を持った人物だと知っていたせいか。衣服には、金や銀のモールがあしらわれ、貴族とはまた別の風格を漂わせていた。肌は服と競っているかのように白い。
「私、レイオス・リアン・ノル・フェルティアード、及び私めが指導致します新兵、参上つかまつりました」
 片膝をつき、フェルティアードが頭を垂れ告げた。伏せているというのに、低い声は広大な部屋によく響いた。その彼を追って、ゼル達も同じように膝を折った。胸に触れた脚に、うるさいまでの鼓動が伝わってくる。
 若いといっても、この場にいる人間の中で、誰よりも地位が高いのがあの青年であることは、疑いようもなかった。視界が自分の影の落ちた敷物だけになり、ゼルは少しだけほっとした。ここで新兵がしなければならない儀式などなかったはずだ。フェルティアードの言葉に耳を傾けながら、ゼルは足元の布の模様を見るのに集中することにした。
「今期兵を代表しまして、我らの持てる武力、知力全て、ベレンズ王国、そして国王陛下の御為に捧げることを、お誓い申し上げます」
 叔父から何度も聞かされていたことその通りだった。ひどく堅苦しい台詞だ。だがこの環境では、少しでも型から外れれば、白い眼で見られることになるのだろう。ゼルは貴族になることが夢ではあったが、この形式張った会話には、そう簡単に慣れることはできなさそうだ。
 高い位置から、布のすれる音がした。身動きをとったにしては大きすぎる。気になるからと、そう簡単に顔を上げられる状況でもない。
「フェルティアード、それに新兵のみなさん。顔を上げなさい」
 ゼルが望んだ行動の許可は、あっさりと下りた。隣の同期が動くのを察知して、ゼルはそろそろと目線を上にした。玉座を立った国王が、そこにいた。
「きみ達の活躍、大いに期待している。しかしまず、きみ達には自分の身を大事にしてほしい。無用な争いは慎み、日々の鍛錬に励むように」
 静かな、だが芯のある声だった。フェルティアードのように響きはしなかったが、その言葉は、ゼルに真っ直ぐ届いた。
 国王は女性らしい顔立ち、というわけではなかった。線の細い印象はあったが、緑がかった碧眼は少しも揺らいでいない。王族と自分とでは、歳が近そうでも天と地ほどの差があるとわかっている。しかし、身分が違うだけでこんなにも変わるものなのか。
 と、突然左の腕を小突かれた。エリオだ。何だろう、と思う前に、ゼルは気付いてまた頭を下げていた。何のことはない、先ほどの国王の言葉に従う意を表すため、フェルティアードとゼル以外の新兵が、再度伏せていたのだ。
 くすり、という笑い声。静寂の中でのそれは、十分すぎるぐらいに聞こえた。ゼルに向けられたものであることは、この状況下では間違いなかったので、その声に小馬鹿にしたような色があったのか、それとも全く純粋におもしろかっただけなのか、ゼルには想像する余裕などなかった。
 何よりも、これでフェルティアードに目をつけられてしまったのは確実だ。国王陛下が笑ってくれたからいいものの、皆の行動に遅れて倣うなど、失礼極まりない。恥ずかしさと悔しさで、顔が熱くなった。
 高い音と共に、国王の靴が段に下ろされた。歩み寄ってくる彼に、動いたのはフェルティアードだ。国王が降り切る頃を見計らったように、悠然と起立する。再度膝を折っていた新兵達も、また直立の姿勢をとった。国王はフェルティアードの前に立つと、そっと右手を差し出す。
「近く、あなたに頼ることになりそうだ。その時はぜひ力を貸してくれ」
「承知致しました」
 見上げてきた王に、フェルティアードは皮手袋を取り、その手を握り返して礼をした。その彼に、王は「気をつけて」と囁いたが、それは二人以外に届くことはなかった。
 そのまま玉座に戻るかと思いきや、国王は新兵達にも握手を求めてきた。フェルティアードの隣にいた青年が、救いを求めるように彼を見ると、彼はわずかに目を開けて、小さく頷いただけだった。
 青年のぎこちない動きの握手を終えると、国王は順にこちらへやって来る。やはり全員と交わすつもりらしい。
 これ以上の失態は犯すまいと、ゼルは早くに皮手袋を外していた。自分の前に国王が立ち、にこやかに手を差し伸べてくる。その微笑が、さっきの笑いの続きのような気がして、ゼルは気を紛らわせるため、不必要なぐらいに王の手を握り締めるところだった。
「フェルティアード」
 大貴族の名を呼んだのは、玉座に戻ろうとしていた国王ではなかった。見れば、階段の下部に男がいる。青紫の法衣を着込んだ彼は、目だけを彼に向けていた。
「きみに話がある。彼らを帰したのち、わたしの部屋へ来てもらいたい」
 ややしわがれてはいたが、深みのある声の催促に、フェルティアードは短く、だが明瞭に了解の意を伝えた。
 猫背気味なその男は聖職者らしい。しかし一介の聖職者が、国王のすぐそばに、数人の男達に守られて居られるわけがない。ということはあの人は宰相という立場の人間なんだろうか。フェルティアードとは違う、心の奥を探られるような目つきに、ゼルは不安に駆られそうになった。
 国王が退出の許可を下すと、フェルティアード達は深々と礼を残し、元来たように王の間を後にした。


「こっ、国王陛下にお会いした!? ごほっ」
「デュレイ、何つっかえてるんだよ、落ち着けって」
 席を立って手を伸ばし、ゼルは向かいに座る友の背を叩いてやった。口に入れたばかりの米を、上手に喉に引っかけてしまったようだ。
「あ、ありがと、ゼル。でもすごいなあ、さすがは大貴族だ。新兵全員の代表なんだね」
 目元ににじんだ涙をこすって、デュレイはやっと顔を上げた。ゼルもほっとして、腰を下ろして夕食を再開する。メンクの宿と同じように部屋で楽しんでいる食事は、王都ということもあってか品数も豊富だ。
「ぼくもびっくりしたよ。フェルティアード卿と顔合わせしたと思ったら、その次に国王陛下とだなんて。おかげで早速目をつけられたみたいだし」
「うん? 何かあったのか?」
 ゼルはデュレイに、フェルティアードの部屋でのやり取り、そして国王と対面した時の一件を、少々恥ずかしかったが事細かに教えた。国王と握手を交わしたことは、またデュレイがむせることになりそうだったので、彼の手が止まるのを見て、思い出したように付け加えておいた。
 聞き終えたデュレイは、予想通り握手の話で、血の気が失せてしまったように見えた。その衝撃で前半の話を忘れたのではないかと思ったゼルは、そっと彼に問いただしてみた。
「デュレイ、大丈夫か? 今のでぼくの話、吹っ飛んでないよな」
「えっ、ああ、大丈夫だ忘れてないよ。いや……すぐには信じられないや。その点では、フェルティアード卿のところじゃなくてよかったと思うね」
「きみがその場にいたら、卒倒してたんじゃないか?」
「ほんとだよ」
 苦々しげに笑ってから、デュレイは話を戻した。
「でもさ、顔を覚えられたってことは、いいことをしてもすぐに気付いてもらえるんじゃないか? あの方だって何にでも厳しいわけじゃないだろうし」
「それにしたって、あの言い方はどうかと思ったぜ。こっちのやる気が削がれるじゃないか」
「まあ、そうだけど……」
 言葉の矛先が大貴族に向いていることに、デュレイはたじろいでいるようだ。
 フェルティアードの話になって、ゼルはふとあることを思い出した。そう言えば、フェルティアード卿は自分のことをル・ウェールと――出身地名で呼んでいたな。
 見知った村や町にしか行かなかったゼルにとって、村の名が自分を指すことには違和感があったのだ。上か下のどちらか、あるいはゼル、と親しみを込めて呼ばれることしかなかったのに。
 ベレンズでは、遠方から来る人は地名で呼ばれる傾向でもあるんだろうか。ゼルがフェルティアードに村の名で呼ばれたことを教えると、デュレイは、意外そうな顔で答えを返してきた。
「へえ、きみのことそう呼んだのか。地名を呼称にすることはあるけど、一般的には下の名前かな」
「ふうん。なんでおれのこと地名で呼んだりしたんだろ」
「多分、ウェールって名前が珍しかったんじゃないかな」
 確かに小さい村だし、名を轟かせるような特産品もない。あの時のフェルティアード卿も、ウェールと聞いて詳細を尋ねてきたんだっけ。
 しかし、“ル・ウェール”は“ウェールの者”という意味を持つだけだ。ジュオール・ゼレセアンという一個人ではなく、ただの“その地から来た人間”としか見られていないようで、ゼルとしてはいい気分ではなかった。
「物珍しいからだなんて、こっちとしちゃたまったもんじゃないよ」
 呆れて、だらしなく椅子の背にもたれかかる。あくまでぼくの想像だぞ、とデュレイが言ってきたので、わかってるよ、と軽く返した。
「そうだ、ゼル。きみもこれから下宿を探すんだろ?」
 この白鳥亭に世話になれるのも、あと数日になっていた。それまでに、これから自分が暮らす場所を探さなくてはならないのだ。
「ああ、そのつもりだよ。でも明日明後日は探す時間ないだろうな。もう王宮に通わなくちゃならないもんね」
「じゃあさ、ぼくが住む予定の下宿屋の人に、空きのある所がないか聞いてみるよ。なるべく早いうちに決まったほうがいいもんな」
 それを聞いた瞬間、夕食を楽しむために押さえ込んでいた焦りが、すっと軽くなっていった。ここを出なくてはならない期日になるまで、下宿か新しい宿かを見つけられなかったらどうしようか、と思っていたのだ。ゼルは勢いよく跳ね起き、
「本当か! お願いするよ、デュレイ」
「ああ。うまくいけば、最初の休日までに見つかるかもしれないから、その日になったら教えるよ」
「ありがとう」
 生活するための不安の種を消し去ってくれたデュレイに、ゼルは手をつけていなかった揚げ物を、彼の皿に乗せてやった。