狼の騎士

第三章「フェルティアード」 第一節

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 広間を見下ろすのは、いくつもの目。しかしどれも生きているもののそれではなかったので、ゼルはさして緊張することなく、彼らを眺めていた。
 描かれた人間――ではなく、神々の顔立ちには、目立った特徴はなかった。悪く言ってしまえば、どれも似たり寄ったりである。彼らを区別するのは顔ではなく、彼らの持つ力なのだから。
 身近に感じたいがために、人間が人の形で絵に表しただけに過ぎない彼らは、絵画においては不思議な人物として描かれる傾向があった。服装は、はるか昔に消え去った一枚布を巻きつけただけの、素朴だが異彩を放つものが多く、そして彼らは例外なく、その身に“力”を纏わせていた。水の神ウェルアなら輝く飛沫を、樹木の神ジルドなら葉と蔓を。
 そして絵の一番上、その中心に、光を背負った神があった。表情が不鮮明なのは、何も画家が手を抜いたからではない。えがけなかったのだろう。全ての神を生み出すとされている、太陽神エンデルの尊顔を。
「ゼル、そろそろだよ」
 ゼルの目を一枚絵から背けさせたのは、やわらかいエリオの声だった。ゼルと目が合うと、彼はにこりと微笑んだ。
「その絵、好きなのかい?」
「いや、こんな大きいのは初めてだったからさ。さすがは王宮だと思って」
「そうだね。でもキトルセンだと、彫刻がすごいよね」
「あのおっきな神殿?」
「うん。そっか、ゼルはまだ行ったことがないのか。休みの日にでも案内するよ」
「ありがとう」
 試験から一晩明けた王宮の広間は、半分以上が新兵で占められていた。彼らをある区分に従ってまとめているのは、闇の中で見るような赤色の外套をなびかせた男達がほとんどだ。
 彼らも貴族なのだが、その中では階位が低く、さらに上の位にいる貴族に付き従っているため、彼らは騎士と呼ばれていた。
 ゼルは叔父に、高位の貴族から認められ騎士になれなければ、おまえの夢は叶わないも同然だ、と諭されていた。容易なことではないのと、ゼルには平凡な暮らしをしてほしい、という思いからの言葉だったのは、言われた本人もわかっていた。
 点呼を取り、全員がその場にいることを確認すると、彼らは青年達を連れ、広間を去っていく。これから二年間、それぞれの新兵の師となる貴族と顔合わせをするのだ。案内する騎士は、きっと各々の貴族が召し抱えている者だろう。昨日ゼル達と最初に会った男も、どこかの騎士だったに違いない。
「エリオ・ウィッセル、ジュオール・ゼレセアンはいますか?」
「はい」
 呼んで来てくれたエリオについて行く途中で、二人の名が叫ばれた。はきはきとした返事をしたのはエリオだ。周りに比べ、かなり小さい班をつくっているところがある。それがかの大貴族の教えを請う、全員だった。
「エリオ・ウィッセル・ル・セド。それにジュオール・ゼレセアン・ル・ウェール。間違いありませんね?」
「はい」
 手にした名簿と二人を行き来した瞳は、金よりも落ち着いた、しかし茶というには透き通った光を放つ色をしていた。新兵を引き連れる役なのだろうが、それが女性であることがゼルには意外だった。宮廷付きの女官にしては、ずいぶんと短い黒髪だ。結わえてもすぐにほどけてしまいそうである。
 なめらかで淀みない語調は、場慣れしている証だろう。ゼルと同年代でないのは、露ほども緊張の色を見せない態度が物語っていた。
「皆揃ったようですね。では、これからの二年間、あなた方が頼りにするべき方の元へ案内します」
 一瞬だけ、彼女と視線が重なった。そこに鋭いものを感じて、ゼルは思わず目をそらそうとしたが、彼女のほうが先に踵を返していた。気のせいだと思い込むには、いささかはっきりとし過ぎた眼光だった。知らぬ間に何か失礼な言動を取ったのか。
 女性はというと、名簿を小脇に抱えて歩き出している。青と緑が溶け合った、貴族の夫人を思わせるほど華美でない、飾り気の薄いドレスは、比較的高めの身長を持つ彼女をさらに細く見せているようだ。
 廊下を曲がる時に彼女の横顔を盗み見ると、身分の高さの象徴にも思えた肌の白さは、特に際立っていなかった。屋内にいることが多いから、街の女性には透き通るような肌の持ち主が多いのだろうか、とも考えていたが、化粧のせいもあるかもしれない。そうすると、固い表情を崩さない彼女は、化粧を好まない性格なのか。
 礼儀や作法には厳しいはずの王宮で、一定の嗜みとして化粧もあるだろう。人前に出ているというのに、それを拒絶できる身分の女性なんだろうか。
 そんな想像をしているうちに、女性が足を止めた。
 彼女が前にしていたのは、一つの扉だった。しかしそこには、待合室となっていた部屋とも、試験場だった部屋とも違う空気が漂っていた。よく似ているものといえば、王宮の入り口で感じたようなもの。一介の民が、いや兵ごときが、触れてはならないような扉。
 つやのある木製のそれは、素材は他となんら変わりはないのに、いかめしく凝った装飾と縁取りのおかげで、ゼルの目には全く異質なものに映った。
 女性の手がためらうことなく、取り付けられた金属の輪にかかる。重苦しく鈍い音が、二度鳴った。それに応えるように、室内から声らしき響きが聞こえたが、その内容まではわからなかった。真正面にいた女性だけが聞き取ったらしく、失礼致します、と言いながら、輪にかけていた手を取っ手に移した。
 扉は、かちゃりという音以外何も立てずに開いた。女性が体を滑り込ませるように入室し、口を開く。
「フェルティアード卿、今期の新兵をつれて参りました」
 部屋の貴族は、それに対しまた何か言ったようだったが、廊下に待機させられていたゼルには、声はおろか姿さえ見えない。扉は細くしか開いていないうえ、女性の体がそのわずかな視界を遮っていたからだ。しかしそれもわずかなあいだで、女性が内側からドアを開け広げてきた。漏れた光の上を歩くように、先頭にいた者から順に中へ入って行く。
 顔が見えるよう、一列に並んだ同期の横につきながら、ゼルは部屋の主をやっと見ることができた。子供用の寝台かとも思える広い机と、背後にある眩しいまでの光を放つ窓。その狭間で立ち上がった男こそ、大貴族と称されるフェルティアードその人だった。
 ゼルよりも長い漆黒の髪は、貴族らしく肩まで伸びていた。試験の部屋で会った貴族に比べるとうねりも目立ち、手入れを怠っていない、という印象には遠い。大貴族も案外そういうものなのか、と力を抜こうとした肩が硬直した。
 逆光のせいで読み取れなかった顔の奥で、金色の目がこちらを見ていた。樹液が固まったものを宝飾品として売っているのを見たことがあったが、あの石そのものみたいだ、とゼルは思った。
 そんなことを思い出しながらも、目が合った時の射抜かれるような感覚は、未だゼルの心臓を騒がせていた。まるで獣に狙いを定められたようだ。
 ゼルに続いて隣に並んだエリオも含め、フェルティアードは目だけを動かし、新兵を一瞥した。その表情は固い、という程度では済まなかった。不機嫌そうにつり上げられた眉に、鉄扉の如く引き結ばれた唇。歓迎などとは程遠い態度である。
 彼の口髭は刈り揃えられ、顎鬚のほうは、髪に隠れた耳の辺りまで顔を縁取っているように見えた。年の頃は四十半ばだろうか。一見して粗野とも取れなくない風貌は、すっと伸びた背と、何事も隠し通せなさそうなその目で、打ち消されているようであった。
「わたしのところへ寄越されるとは、きみ達も不運だな」
 第一声がそれだった。試験場の貴族に似た、低く落ち着いた声だったが、街中でこんな声が聞こえたら、ついその主を見つけたくなりそうな、不思議と惹きつけられる響きがある。しかし今の言葉には、かすかに嘲りの色が見えた。
「わたしは他の者ほど暇ではない。よって、きみ達に直接何らかの指導を行うことはまず不可能だ。そこは了承して頂こう」
 ゼルは、開口一番の台詞にこそわずかな怒りを覚えたが、二言目の内容には納得した。二年間の師とはいえ、何から何まで一人の貴族に教わるわけではない。ここが特異なだけで、普通ならこの倍では済まない数の兵を、貴族は受け持っているのだ。剣の指導や軍の基本は、その貴族の騎士、あるいは幹部兵が行うことがほとんどなのだ。
「心得ております」
 発言したのは、先頭近くにいたため、列の端に並んだ青年だった。ゼルが少しだけ身を乗り出して見ると、短い黒髪の下に、きっと締まった表情があった。凛とした声色は、大貴族という身分に対して遜色のないものだったろう。
「お喋りなやつだな」
 しかしながら、フェルティアードはそれをにべもなく一蹴した。
 返された青年は羞恥からか、赤くした顔を隠すように伏せた。そんな彼を気にした風もなしに、フェルティアードは机の前に回り込んできた。暗い青色の外套が斜光のせいで明るく見え、それを留める金色の金具には、深すぎる森を彷彿とさせる深緑の宝石が灯っていた。
「意気込みを語る自己紹介は結構。名前だけ順に言ってもらおう」
 机を滑った手が、一枚の薄い紙を取った。光に透けて反転した文面には、短い文字列が箇条書きになっている。どうやら、彼に渡されていた新兵の名簿らしかった。
「アールズ・ケイ・ル・ベレンズです」
「ラジッド・セアス・ル・ベレンズです」
 二人目が、先ほどの気の毒な青年だった。彼らに続いた兵も、ほとんどがベレンズ出身の人間だ。やっぱりこれだけ巨大な街だからか、と聞いているうち、あっという間にゼルの番になった。
「ジュオール・ゼレセアン・ル・ウェールです」
 名乗る度に一人一人の顔を見ていた目が、ゼルの前で細められた。あの威圧のある視線が、今度は自分だけに向けられている。
「ウェール? 聞かん地名だな」
「ここから東の方にあります、小さい村です」
 そうか、と呟いて次を促した大貴族に、ゼルは安堵の息をついた。いつの間にこんなに空気を溜めていたのか、自分でも驚いてしまう。最後のエリオの口が閉じると、フェルティアードは薄紙を戻し、言った。
「早速だが、これより国王陛下に謁見する。今期兵の代表として、陛下と国に対し尽力することを誓うものだ。ベレンズの者なら知っているな」
 頷けなかったのは、ゼルとエリオを含む、地方から来たわずかな人数の新兵だけだった。ゼルなどは瞬きすらできていない。そんな彼に、フェルティアードが気付かないはずがなかった。
「どうした、ル・ウェール。陛下にお目通りするのが不服かね」
 明らかに問いかけの口調に、ゼルはなんとか答えを絞り出した。
「いえ、とんでもないです」
 もう少し丁寧なほうがよかったか。しかし早く返答しなければ、という焦りから早口になっていた言葉は、すでに口から出ていった後だった。
 それにしても、まさか国王にお会いすることになるとは思わなかった。兵全員が国王に会うことは、数の多さからして難しいため、一人の貴族の指導下にある新兵が代議するのはわかる。それが大貴族なのも、腑に落ちないところなどない。そんな立場にいるというのが、ゼルにとっては自分にそぐわない気がして仕方がなかった。
「ならば、くれぐれも陛下の御前でそのような醜態を晒すな」
 当たり前だ。ゼルは口にこそしなかったが、顔つきはやや険しくなっていた。突然国王に会う、なんて言われたから驚いただけで、事前に説明されるなら心の準備はできる。
「もちろん、そんな真似は致しません」
 黙っていようとしたのに、一瞬だったがゼルを支配した感情は、いらぬことまで口走らせていた。しまった、と我に返ったと同時に、複数の視線が自分に集中したのを感じる。ここでまた顔に出したら、さらに何か言われてしまう。それだけは避けようと、ゼルはぐっと口をつぐんだ。
 これが功を奏したのかはわからないが、フェルティアードが追い討ちをかけることはなかった。一息つく間もない、ほんのわずかなあいだだけ、柔らかくもない視線が寄越されただけだった。
「よかろう。その言葉を偽る行動はしないことだな」
 言い終わるやいなや、彼はゼル達が入ってきた扉へと歩き出した。エリオの脇を通り過ぎると、ついて来い、という抑揚のない声がかけられた。