狼の騎士

第二章「王都の勇兵達」 第一節

<<第一章 第二節 目次 第二節>>

 男が扉の一つを開けた。中の様子が見えるより先にあふれてきたのは、大量のざわめきだった。
「ではお二人とも、こちらです。もうしばらくしたら順に呼ばれるので、それまで待っていてください」
 太陽が頭上に届くには、まだ数時間の猶予がある時刻だった。街にもまだ静けさが残っていただけに、余計大きく聞こえたのかもしれない。
 促された二人が入り口に歩を進めると、かすかに話し声が静まり、近くにいた者は彼らに目を向けたりもした。どこを見ても、派手ではない外套に、腰に剣を吊った若い男ばかりである。
「なるほど、ここが待合室なんだ」
 ゼルは、部屋を埋め尽くす人込みに分け入らず、静かに閉じられた扉側の壁に背を預けた。体格に比例して高い身長を持つデュレイは、首を伸ばし気味にして部屋を見回している。自分が爪先立ちしたって見えない景色を彼は見てるんだろうな、と思うと、ゼルはまた自分の小ささを見せ付けられるような思いがした。しかし、騒いだところで成長に変化が現れるわけでもない。悔しがる顔を見せまいと、ゼルはそっと顔を伏せた。
 デュレイと一緒ではあったが、ここに来るまでに王宮の衛兵、この部屋に案内してくれた赤い外套の貴族と、立て続けに宮殿の人間に接したゼルは、心の準備をしていたものの、いささか緊張していた。他愛もない会話で満たされたこの部屋は、確かにうるさいとも言えたが、気を休めるにはありがたかった。
「ん?」
 長靴ばかりが視界を埋めると思っていたゼルの目は、全く異なる物を映した。光を反射するそれは、一見して金属であることがわかった。しかし輝きを発したのは一瞬で、すぐに新兵達の影が落ち、そこに物があることすらわからなくなっている。この混みようでは誰も足元など見ないのだろう。
 人に話しかけるためであったなら、少し躊躇したかもしれない。しかし相手は無機物で、踏みつけられそうになっても声を上げることなどできないのだ。ゼルはぐいと人の波を掻き分け、わずかにかがんでその金物を取り上げた。すぐさま引き返すと、デュレイと目が合った。突然その場を離れ、しかも同年代とはいえ、今見たばかりの人達の中に入っていったのに驚いたらしい。
「ゼル、どうしたんだい? 誰か知り合いでも?」
「いや、違うんだ。こんなのが落ちてて」
 手を開くと、そこにあったのはペンダントのようだった。一対の翼を模した飾りと、首にかける環の部分は、重さを感じさせるような落ち着いた銀色をしている。
「誰かの落し物かな」
「だと思うな。王宮だって、こんなのを置きっぱなしにするわけないだろうし」
 そう言ってゼルは辺りを見回し、ふと一人の少年に目を止めた。この人だかりの中では、誰かが視線を向けていると、逆に目立ってしまう。じっとこちらを見ているその少年は、ゼルがどんな人間なのかを探っているような様子ではなかった。ただ必死に一点を見つめている。ゼルは、すぐにその少年が自分ではなく、自分の手元を見ていることに気付いた。
 相手は声を上げたのか、一瞬口を開けると、人垣にも構わず一直線に走ってきた。
「すみません! あの、失礼ですがあなたが持ってるのは」
「えっ? ああ、これ」
 半ば閉じていた手を広げ、ゼルは彼にペンダントを見せた。それを確認するなり、少年は目に見えて顔を輝かせ、安堵したようだった。
「よかった。ここに入ってから落としたことに気付いたんで」
「これはあなたのだったんですか」
 はい、と返事した相手を、ありえないはずなのに、自分より年下に見えてしまったのも無理はなかった。ゼルよりわずかばかり背は高いが、短い金髪の下にあるのは、同じ年とは思えないほどの童顔だった。デュレイが粗野だとは言わないが、相手を気遣うような丁寧さがにじみ出ているようである。光の粒を散らした川面を思い出させるような水色の瞳が、ゼルの青い両眼を見据えた。
「ありがとうございます、拾って頂いて。お名前はなんとおっしゃるのですか?」
「ジュオール・ゼレセアンです。でも長いから、ゼルって呼んでくれれば」
 言いながら、ゼルは少年にペンダントを手渡した。彼はそっと手に収めて、
「ではそう呼ばせてもらいますね。ぼくはエリオ・ウィッセルと言います。そちらの方はご友人ですか?」
「ぼく? ああ、ゼルが認めてくれるなら友人かな」
「何言ってるんだよ、当然だろ」
 ふざけた口調にゼルが突っ込むと、はにかんだ二人につられるように、エリオも笑った。暖かい春風が人の姿をとったら、こんな笑顔を見せるのかもしれない。
「ぼくはデュレイク・フロヴァンス。デュレイって呼んでくれ。それと、そんなかしこまったしゃべり方なんかしなくてもいいんだぜ。えーっと……同い年だろ?」
 言ってから不安になったのか、デュレイの語調はだんだんしぼんでいってしまった。それを支えるように、エリオは間を置かずに、高めだが落ち着いた声で答えを返した。
「ええ、見ての通り、義務年齢の中では最年少です。すいませんね、ちょっと緊張してしまったみたいで。デュレイが年上に見えたもので」
「第一印象はそうかもしれないけど、意外とおもしろいとこもあるんだぞ。ここに来る途中貴族の方に会ったんだけど、その時なんか……」
「お、おいっ、ゼル!」
 顔を真っ赤にしながら、デュレイは必死になってゼルを止めようとした。わかりやすい反応をするところが、やっぱり子どもらしい。ゼルはそんなデュレイの態度を、不謹慎だと思いつつも面白がりながら、話の続きを語ろうとした時だった。
 部屋の扉が開け放たれ、男が姿を現した。ゼル達を部屋まで案内した男ではなかったが、同程度に身分の高い者であることは、宝石を飾った留め具が物語っていた。
 途端に、部屋を満たしていた話し声は、まるで最初からなかったかのように消え去った。男が、手にしていた紙に目を落とすと、ゼルは場の空気が一層沈み込んだように感じた。しかしそれは恐怖などではなく、一種の緊張であった。
「次に呼ばれる者は廊下へ。エリオ・ウィッセル……」
 これに続けて男が読み上げた名前を、ゼルは記憶に留めることはできなかった。名を呼ばれた当の本人――目の前の少年の目つきが、にわかに変わったからである。優しげな色は残したままだったが、淡々と文面を読み上げる男を見る目は、まるで別人だった。ゼルは、獰猛な野生の動物というのを見たことはなかった。だが、聞いた話から想像するだけなら、獲物を見つけ動物はこんな目をするかもしれない。柔和な印象を受けたこのエリオという男も、やはり兵としての意気込みを持ってここに来たのだろう。
「ぼくの順番が来たみたいだ。それじゃゼル、デュレイ、機会があればまた会いましょう。ゼル、見つけてくれて本当にありがとう」
 そう告げたエリオの目からは、あの鋭さにも似た眼光はなくなっていた。彼が踵を返し部屋を出て行くまで、ゼルはその背中を見送った。
 エリオが去ってからも、新兵を呼ぶ男と、新たに入って来る青年達は後を絶たなかった。そのため、一度に十人程部屋を出て行っても、この空間にいる人数はさして変わることはなかった。
「なあゼル、ここに入ってからどのくらい経ったかな」
「結構待ったとは思うけどね。顔ぶれも大分変わってきたから、そろそろぼくらも呼ばれるさ」
 とは言え、デュレイ越しに扉を見つめてばかりいると、時が経つのを遅く感じてしまう。ずっとデュレイと街や王宮の話をしてはいるが、その話題も徐々に尽き始めていた。
 そんな時に、再び開いた扉から現れた宮廷の男が、とうとう二人の名を読み上げた。その他にも、同時に呼ばれた数人が、入り口に集まってくる。そこで一人一人、また名前を確認すると、男は自分について来るように告げ、歩き出した。ゼル達を案内した男とは違い、ちくりと刺すような緊張感を纏っていた。
 男は部屋を出ると何度か角を曲がり、やがて突き当たりに向かっていった。廊下に沿って折れて進むわけではないことは、次第に遅くなる男の足取りで判断していた。
「レイ・ストロン、ジュオール・ゼレセアン、ラジッド・セアスはこちらだ」
 その扉は、王宮に入ってからゼルが眺めてきたものと同じく、重厚感のあるものだったが、本当にそれだけであった。装飾もなければ、形状に関しても美しさの欠片もない。王宮の玄関で感じた近寄りがたさとは全く別の、跳ね除けられるような印象を受けた。
 デュレイを含む残りは、隣の扉の横に並ばされていた。やはり同じような種類の戸だ。誘導されていく時、デュレイが小さく手のひらを見せたので、ゼルも同じように返してやった。
 ゼルはまた壁にもたれたが、今度は試験場の部屋がすぐ隣という違いがある。はっとなって背を浮かせ辺りを見ると、案内した男はもと来た方へ戻っていくところだった。静かな広い廊下は、時折部屋を行き来する侍女が早足で通るばかりである。
「次の者」
 低く太い、それでいてすっと芯の通った明瞭な声が扉を開いた。そこに顔を向けたのはゼルだけでなく、その前と後ろにいた青年もだった。しかしせり出していた柱のせいで、声の主の姿は見えない。前に並ぶ青年の脇に出てまで覗こうとは、さすがに思えなかった。
 はっきりとだが、やや震えのある声で返答したのは、もちろん先頭の青年だ。名前を聞くどころか、顔もよく見ていなかったが、部屋に入っていく彼に、がんばれよ、とゼルは心の中で呟いた。
 一人分空いたところを進み、ゼルは調子を整えるために息をつき、天井を見上げた。円弧を描くそこには、幾何学模様に見える絵図が張り巡らされていたが、よく見ると植物を模しているようだった。
 すでに試験場の一歩前にいるのに、ゼルはその実感が沸いてこなかった。真剣での勝負ではないにしろ、相当の技術を持った人間と対することになるというのに。もちろん勝てるはずはないし、勝とうとも思っていない。ただ、相手に臆して自分の力を出し切れなかった、という結果にはしたくなかった。
 相手は一体どんな人なのだろう。屈強な男か、それとも素早い身のこなしで翻弄してくる者なのか。そんな想像をして、ゼルはすぐにその続きを考えるのをやめた。どんな相手か目星をつけたところで、今の自分がそれぞれに合った対抗策を取れるわけがない。この試験は、腕の良し悪しではなく、その癖や傾向を判断するものだと聞いていた。ならば見誤られることがないよう、自分らしさを惜しみなく見せられればいいのだ。
 そんな固められた意志の強さを確かめるように、意外に大きな音を立てて扉が開いた。途端に鼓動が速くなる。宮殿を前にした時の比ではない。
 とうとうおれの番か。そっと首をめぐらせると、先ほどの青年がこちらに背を向けて、ゆっくりと扉を閉めるところだった。そしてゼル達がいるのを忘れたかのように、廊下に出た彼は左右を見渡し、待合室のあった右手へ歩いて行く。彼をずっと目で追うと、その姿はこの試験場と同じ並びにある、突き当たりに近い部屋へと消えて行った。
 一人の試験が終わって次が呼ばれるまで、少し時間があるらしい。おそらく、どこの所属にするかを審議しているのだろう。ということは、実際に剣を交える試験官の他に、複数人が中にいるのか。
 ほんの少し足を動かすと、腰の剣が壁にぶつかった。中に入れば無用の物となるのに、ゼルの手はその鞘をしっかりと握り締めていた。
 平凡な村から来た若者が、貴族になる。ありえないわけではないが、容易なことではない。それでも、ゼルはその目標を揺らがせたことはなかった。まだどこの領地にも属さない自分の村を、自分の手で豊かにしたい。親友や、今まで育ててくれた叔父のためにも。
 そう叔父に意気込んだら、そんなことより生きて無事に帰ることだけ考えていろ、と言われたっけ。その時の彼の、悲しさと呆れの混ざった顔を思い出して、ゼルは口元を緩ませた。
「次の者」
 開音が声そのもののようだった。厳格さが音になったようなあの低い声は、ゼルの姿勢どころか顔つきまで正す威力を持っていた。
「はい」
 吸い込んだ空気を喉に溜め、振り返らないまま力強く一息に返事をする。上ずるかもしれないと思った己の声は、意外にも低音になって出てきた。そしてやっと入り口に体を向けたゼルは、そこに立つ男を振り仰ぐことになった。
 小さな青年とは対照的に、相手を見下ろしている巨人は、磨き抜かれた鋼を思わせる色の瞳をわずかに細め、道を開けるように部屋の中へ一歩だけ下がった。それが部屋へ入れ、という合図だということは、すぐに理解した。
 男の、夕日を思い起こさせるような、かろうじて金色の髪は、一分の乱れもなくまっすぐに揃えられていた。その色は獅子のような剛勇さをかもし出していながら、荒々しさまでは感じられない。それでも、今まで見てきた貴族とは比較にならない気高さが、ゼルの肌を服の上からちりちりと焼いてくるようだった。進める足どりが一瞬遅れたのは、そのせいだったかもしれない。
 固く閉じられた口元を、壮年らしく髭が覆っている。試験場に入ったゼルは、もう一度この貴族の顔を見ようとしたのだが、目立たぬよう見上げた視界に入ってきたのは、それだけだった。ゼルが正面に向き直るのとほぼ同時に、背後の扉が閉じられた。
 部屋の中は、扉と同じく殺風景なものだった。人の住まいというよりは、小さい闘技場である。内装こそ、待合室のような絢爛さがあったが、窓などは一つもない。家具らしいものといえば、いくつかの壁の明かりと、名簿とおぼしき紙。それよりも一回り小さい紙が無造作に重ねられたもの、そしてペンが投げ出された、小さく簡素な机ぐらいだ。
 そしてこの空間にいた人の数は、ゼルの予想を裏切るものだった。ゼルを招き入れた長身の男と、部屋のほぼ真ん中に立ち、こちらに横顔を見せている異様な風体の者との、たった二人だけだったのである。
「手紙を頂けるかね」
 頭上から落ちてきた催促に、ゼルは現実に引っ張られた気分になった。それほど、これから剣を交える相手らしい人の格好に、目を奪われていたのである。ゼルは貴族を相手にしている、という緊張感が湧き上がる前に、機械的に手紙を取り出し、男に渡していた。
 外気にさらされた彼の額に、わずかにしわが寄ったように見えたのは、自分の手紙がずいぶんとしわくちゃになっていたからだろうか。思い過ごしだと信じたいが、もしそうでなかったら。顔が熱くなりそうなのを、ゼルは必死で押し留めた。
「……結構。では外套と剣をこちらに」
 手紙を手にしたまま、彼はゼルが最初に見つけた机へ歩いて行く。その背は、碧色の外套で覆われていた。
 外套を脱ぎ、帯から剣を外す。男の後ろには、壁に沿って横長の机があった。そこに剣をそっと横たえてから、ゼルは目だけを先の貴族に向けた。腕をついて紙に何かを書き込んでいる様は、少し辛そうな体勢にも思える。よれた紙切れが、不安定な紙の塔に乗せられたところを見ると、あれはどうやら新兵に送られてきた手紙の束らしかった。
「では、ジュオール・ゼレセアン。これより、きみの配属を決定するための試験を行う」
 顔を上げたかと思うと、男はそうまっすぐに言い放った。ゼルは反射的に「はい!」と叫んでいた。体もすっかり強張ってしまっている。これではデュレイのことをとやかく言うことなどできない。そんなゼルの心中を察したか、男は厳しい表情を和らげた。
「そう緊張しなくていい。これは技術の高い低いを見るものではない。稽古だと思ってもらってかまわん。ただし、出し惜しみはしないように」
 堅固さが減った口調のおかげで、戒めが解かれたようになった体にとって、最後に添えられた一言は、適度に身を引き締めてくれるものだった。
 再びそばまで来た男は、ゼルが外套と剣を置いた机の陰から、一本の剣を取り上げた。ゼルが持つものとよく似た、飾り気のない質素な、細身の剣。しかし、その刀身に鋭い輝きは見受けられない。
「使ってもらうのはこの剣だ。見ての通り稽古用のものだが、使い勝手はそう変わらない。本物よりも少し軽いかもしれないな」
 言い終えると、男は剣の中ほどをつかみ、持ち手をゼルに向けて差し出してきた。腕を見られるものといっても、きっと些細な動作まで評価の対象になっているに違いない。右手で柄を握ると、男の手が剣から離れた。それを見計らって、ゼルは叔父に教えられていた通り、得物を胸の前に引き寄せ、一礼した。しっかりと目を伏せていたせいで、ゼルは男が満足そうに頷いたのを見ることはできなかった。
「では、試験官の正面に」
「はい」
 踵を返し、中央へと歩を進める。そのあいだ、ゼルの皮手袋はきつく剣を握り締めていた。