狼の騎士

第一章「ベレンズへ」 第二節

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 ――歌が聞こえる。
 霧がかかったようにおぼろげな、それでも男の声だとわかる歌。美しい、とは感じない。ただひたすらに暖かく、優しい声。
 時折夢で聞くこの歌は、例えるならなんだろうか。そう思った途端、ゼルの意識は急速に目覚めてきた。いつものあの声はあっという間に掻き消える。
 代わりに、朝を告げる鳥のさえずりと、男の声が聞こえてきた。叔父さんが起こしに来たんだろうか。そう思って身をよじると、素足が外気に触れた。
 ブランケットから足をはみ出すほど、自分は寝相が悪かっただろうか。不思議に思って両目を開ける。木の天井が見えたが、それはまったく見覚えのないものだった。
 一瞬でも、ここはどこだろうと不安になった自分が、馬鹿らしく思えた。なんのことはない、ここは宿の一室だ。川で助けたデュレイクという青年と共にメンクにたどり着き、そこで丁寧な貴族に会い、無事ここに泊まったのだ。
 半身を起こし、大きく背伸びをする。また男の声が聞こえた。廊下ではなく、宿の外で話をしているようだった。
(もしかして、あのリエッタって人かな)
 やわらかい風のような金髪も、今ではまるで荒風のように跳ねていた。そんな状態の頭をかきながら立ち上がり、ゼルは身を乗り出して窓から外を覗いた。窓の真ん中にベッドが横たわっているので、さすがにまだ眠っているデュレイをまたいでまで、外の様子を見ようとまでは思わなかったのだ。
 デュレイの足元からぐっと首を伸ばすと、馬の背に乗った男が二人、亭主らしき人物と話をしているのが見えた。話はほぼ終わっていたようで、ゼルがもしや昨日の、と思った時には、二頭の馬は颯爽と走り出して行った。ゼル達がこれから向かう方向と同じだったので、やはり彼らもべレンズに行くのだろう。
 あの後、デュレイと共にメンクという町までたどり着いたはいいものの、宿という宿が埋まっており困り果てていたところに、救いの手を差し伸べてくれたのがあの二人だった。正確には一人――リエッタと名乗った貴族の男だ。各々で部屋を取っていたところを、新兵となる自分達に野宿などさせられないと、一室を譲ってくれたのだ。
 姿勢を戻してデュレイを見ると、これまた幸せそうに眠りこける顔があった。じっと見つめていたら、笑顔で寝ているのではないかと錯覚してしまいそうである。
 息を吐くように苦笑して、ゼルは自分の寝台に腰を下ろし、着替えを始めた。大体の身支度を整えた頃に、使用人が部屋の扉を叩いてきた。
 運ばれてきたのは朝食だった。質素ながらも食欲をそそる芳香に、ようやくデュレイも覚醒し、出発の準備を始めた。
 朝食を終えて一時間ほどのちに、二人は宿を出発した。このメンクから速歩で向かえば、べレンズにはその日のうちに着く。
 なだらかな丘が続いた先、一面の緑豊かな農地と共に、ゼルが目指してきた場所がようやく現れた。
 そこに広がっていたのは、メンクの比ではない、広大な街並みであった。その大半は頑強そうな城壁で囲まれ、鮮やかな色の屋根が景色を彩っている。まるで蜘蛛の巣か細かい木の根のように、大小の道が街中に張り巡らされていた。その中で一際目立つた建造物に、ゼルは引きつけられていた。
 べレンズの街が華やかであるなら、それは清楚な美しさを放っていた。見る者に調和と安定感を与える左右対称の造りは、白を基調とした、光り輝いているようにさえ見える壁で築き上げられている。
 静かに、そして堂々と鎮座し、木々と庭園を従えたそれは、紛れもなくベレンズを治める王の館であった。
 王都にはまるで巨木の幹のように、長大な川が寄り添っていた。ゼルとデュレイが渡った川も大きい部類には入るが、これに比べればせいぜい細枝の一本程度だろう。
 いつの間にか馬の足をゆるめていたゼルに合わせ、デュレイは自分の馬の手綱を引き、歩みを止めた。それに気づいたゼルも馬を止めたが、その目は眼下に顕在する王都しか映していなかった。
 この旅路を、待ち望んでいた夢の始まりにしようとしていたことを、ゼルは改めて思い出していた。それはつまり、貴族になるという夢だ。ゼルの兵役中に戦争が始まらないかだけを心配していた叔父は、そんな途方もない夢はやめておけ、と言っていたが、元はと言えば叔父の昔話のせいでもある。
 ゼルが幼い頃、彼がうっかりこぼした兄――ゼルの父である――の武功の話に、ゼルが食いついたのが発端だった。平凡な血筋であったが、戦の中で頭角を表していったゼルの父は、貴族となる一歩前までたどり着いていたという。そんな話を、十になるかならないかの幼子が聞けば、夢中になるのも当然である。
 ゼルはもちろん、今まで世話をしてくれた叔父に、すべての責任があるとは考えていない。興味を持ち、意志を固めてきたのは自分自身なのだ。たとえ、一介の平民らしく平穏無事に、あるいは不幸にも怪我を負い帰ったとしても、叔父に聞かせる武勇伝をしこたま揃えてやろう。そう心に決め、手綱を握り締め拍車を入れ、村を旅立ってきたのだ。
「すごい……。王都なんだな、ここが」
「そうさ。ここがぼくらの国の首都、べレンズだ。さあ、行こうゼル」
 再びデュレイの馬が駆け出す。その蹄の音で、ゼルは呆然とべレンズを見つめる自分に気づいた。デュレイを追うのに拍車をかけ、そのあいだにまた街並みを見る。その瞳は、揺るぎない志気で輝いていた。


 門をくぐる前から、にぎやかな群衆はゼルの思考を奪うばかりだった。ものの数分で、彼のいた村の何倍もの住民を目にしたのだ。
 すでに馬を降り、デュレイと並んで大通りを歩いていたが、きょろきょろと辺りを見回すゼルは、デュレイに微かに笑われていることには気づいていなかった。
「うわあ、家も大きいのばっかりだ。もしかして全部二階があるのかい?」
「まあ、ほとんどはそうじゃないかな。この辺は商店が多いからね。一階部分が店、二階が住居ってつくりが大半だから」
「へえ……。あ、あれがさっき見えた門?」
 人の頭の隙間から、城壁が見えてきた。そしてそこには、開け放された門があった。
「そう、べレンズ城下町の入り口だ。でっかいだろ?」
「でかいなんてもんじゃないよ。目が眩みそうだ……」
「大げさだなあ、ゼルは」
 門を見上げながら、ゼルはデュレイに続いて城壁の中へ足を踏み入れた。べレンズに入ってから、わずかにデュレイが先導するような形になっていたのである。
 城下町は、さらに込み合ったつくりになっていた。建物は横に伸び、平屋などは見当たらない。一つの巨大な家にたくさんの人が住んでいるのは、宿に住み込んでるみたいだ、とゼルは思った。
 歩く道は例外なく舗装され、時折馬車が駆けていく。きっと無縁のままベレンズを去るのだろうが、こうも当たり前のように目にすると、もしかしたら乗る機会があるのかもしれない、と期待を持ってしまいそうになる。
「さて、ぼくらが泊まれる宿は……っと」
 デュレイが懐から取り出した手紙を確認している時、ゼルは一つの建物に釘付けになっていた。
「よし、ここをまっすぐで……。王宮に近いんだな」
「デュレイ、あれは神殿ってやつかい?」
「うん? ああ、そうだよ」
 肩を指先で叩かれ振り向いたデュレイは、それを見てすぐ肯定した。王宮には届かないにしろ、大きい部類に入るその建物は、広さもさることながら、天を突くような高さを持っていた。宮殿よりも豪華さはなかったが、それは単に、建造物がどれだけ光を跳ね返しているかどうかの点に限った場合の話である。
 建物自体が彫刻であるような装飾の細密さ、光を内部に取り入れるための色のついたガラス窓などは、“尖塔を伴った質素な建物”と感じたゼルを、実はそんなことはないと考え直させるものだった。そしてなにより、この敷地の入り口には扉を持たない門があったのだが、動物や植物を形象したその荘厳さは、まるで異界との境目だった。
「キトルセン大神殿。国で一番大きな神殿さ。初代キトルセンが建立したものだからかなり古いけど、どうだいこのたたずまい。ぼくも数度来てるけど、いつも見とれてしまってるよ。エンデル神も、きっと満足されているだろうな」
 ゼルはデュレイのその言葉に、受け流すように相づちを打っただけだった。そのつもりはなかったのだが、冷たく当たったようにとられただろうか。ゼルはふっと心配になり、デュレイの顔を覗き見たが、彼は気に障った風もなく、「さ、行こうか」と笑顔でゼルの歩みを促した。
 十分ほど歩いたところで、デュレイは一軒の宿の前で足を止めた。一階の屋根に近い所に札が掛かっており、そこには『白鳥亭』と書かれていた。
「確か、ぼくらが王宮に召集されるまで泊まれる宿屋だね」
「そうだよ。ちょっと馬を頼む。部屋が空いてるかどうか聞いてくるよ」
 手綱を取り、宿に入っていくデュレイの背を見届けてから、ゼルは改めて街並みを見回した。相変わらず高さのある家屋のあいだから、そう遠くない場所にある神殿の先端が、半ば黒く染まって覗いていた。
「ゼル、お待たせ!」
 ぼんやりと黒影を見ていたゼルは、跳ねるような友の声で即座に振り向いた。
「部屋が取れたよ。確認のために国王からの手紙を見せてくれって」
 デュレイに続いて現れた男の手には、さっきまでデュレイが何度も目を落としていた便箋が握られていた。ゼルは裏手から回ってきた使用人に手綱を任せ、荷物をあさって手紙を取り出した。
 男は渡された手紙にさっと目を通した。しばし凝視していたのは、末尾にあった国王の署名だろう。幾分か険しくなっていた目つきが緩んだかと思うと、男は顔をあげうなずいた。
「相違ございません。どうぞ、ごゆっくりくつろいで下さい」
 丁寧な手つきで返された手紙を、二人は軽く会釈して受け取った。男が開け放した扉を、デュレイが通る。ゼルは名残惜しげに尖塔を振り返り、友の後を追った。