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砂色世界の救命師【3】

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「お前は帰るのか」
「ああ。時間がかかったとはいえ、俺の仕事は終わったからな」
 俺とやつは、後部の手術室と運転席との間にある、小さなスペースにいた。手術を始める前も入った、着替えの場所だ。
「じゃあ、俺はその辺でもうろうろするか。ああ、お前ん家の近辺には行かないから安心しろ」
 顔はちゃんと見ていなかったが、目の端でにらまれたような気がしたのでそう言っておいた。一旦止まっていた、やつの服を着ようとしていた腕が、再び動き出した。
 ふと、壁にかけていたやつの上着の中に、何かを見つけた。「これは何だ?」と言って取り上げたら、何なのかわからないうちにすぐ取り上げられるのは目に見えていたので、俺はさりげなく近づいて、口を開いた。
「スラナ、そういえばお前、俺が心臓マッサージしているときに、患者に何か注射してたろ」
「……いや、何もしてないが?」
「その間が怪しいな。何をした」
 にらんでやったら、少しの間、困ったような嫌そうな顔で見返していたが、ため息を一つついて、俺の問いに答えた。
「俺の職業柄、わかるだろう。毒薬だよ。さっきはああ言っておいたが、見られてたんじゃしかたない」
 なるほど、じゃああのビンっぽいのはその毒か。それしか見えないからな。こいつ、なんだかんだ言っておいて、やっぱり患者を殺す気だったのか?
 ………………いや。
「そうかい。全く、やっぱり心の奥で考えてることは殺しのことだけかい」
 ふと、やつが俺から目をそらした隙に、俺は素早くやつの言う毒薬を取り上げた。見ないですぐポケットに入れたので、何と書いてあるのかはわからなかったが、とりあえずビンだということは確認した。
「手術を知ってたとしても、俺はきっと失敗して、結局殺すことになるだろうよ。だからやはり、俺はこの仕事のほうが向いてるんだ」
 何も知らないまま、やつは上着を着た。俺のほうが出口側に立っていたので、戸を開け、先に外に出た。いまだに砂嵐が続いている。
「じゃあな。また会おうぜ、殺し屋さん」
「別に俺は会いたくないが……。もう俺の仕事に手は出さないでほしいな」
「ははっ、そいつは無理だ。じゃ」
 やつはため息をついて、砂嵐の中に消えた。この黄土色の中では結構目立つはずの濃い紺は、あっという間に見えなくなった。
 俺はやつのどこの砂嵐に慣れていないから、こうやってフード付きの体を覆うコートを着たり、細長い布で口元を隠していたりする。それでも、やはりずっと立っているのは辛い。やつが見えなくなって少ししてから、俺はトラックの運転席に乗り込んだ。
「さて、あいつの使った薬は何だったのかな……」
 懐にしまっておいたビンを取り出す。そして、ラベルに目をやった。


「……ない」
「え?」
 小さく呟いたつもりだったが、思いのほか弟には聞こえたらしい。食事の片づけをしていたサシが、こちらを向いたのがわかった。
「どうしたの? 兄さん。……なんか顔色悪いよ」
「そ、そんなに悪いか?」
 この世に一つしかないわけじゃない。売っているところへ行けばいくらでも売っている物だが、俺はそんなに焦っているのか。
「上着? 何か落としたの?」
「ああ……」
 もう一度、壁にかけている上着の内ポケットをあさる。そんなに数があるわけではない。やはり、見つからなかった。
「そんなに大事なものなの?」
「いや……」
 俺が必要としてるものじゃない。俺がなくしてしまったものは…………
「――なんだか日増しに強くなってないか? ここの砂嵐……。よお、邪魔するぜ」
「あ、あなた」
 またきやがった、ユウシのやつ。あれから三日と経っていないぞ。
「ユウシさん……でしたよね。また兄さんのことで来たんですか?」
「そう怒るなって。俺は今日はけんかしに来たわけじゃない。それにこの件については、サシ君、君にも関係がある」
「僕?」
 ユウシが口を開いていなければ、帰ってくださいと言わんばかりだったサシは、ユウシの言葉に少し驚いたようだ。いや、驚いたのはサシだけじゃない。自分の家みたいに、遠慮もせずに椅子に座ると、ユウシは俺を見た。
「なんだ、上着とにらめっこなんかして。もっと丁寧に扱ってくれなんて、文句でも言われたか?」
「服が口をきくものか。さっさと用件を言え」
 俺とサシは席につかず、立ったままユウシと向き合った。ユウシはため息を一つ吐くと、
「お前が上着とにらめっこしてた理由は知ってるぜ。なくしたからだろ? お前にとって……いや、お前の弟にとって大事なものを」
「な、に?」
 なぜこいつが知っている。
「僕に、必要なもの?」
 サシが不思議そうに、こちらを見上げてきた。
「おおかた、弟さんに使うつもりなんだろう? まあ、その前にこないだの患者に使っちまったようだが」
 言いながら、ユウシが何か小さいものを、俺に投げてよこした。慌てて両手で受け取ったそれは――
「…………『強心剤』?」
 俺の手を覗き込んだサシが、呟いた。
「あの時、お前はそれを患者に投与した。それでも、あの患者は死んだ……。だから、あの時お前が言ったこと、信じられるぜ」
 用件とはこのことだったのか。ユウシは席を立つと、入り口へと歩き出した。
「しっかし、俺ももうダメかもしれねえな。強心剤のことすっかり忘れてたとは。今の医者に教えられるなんて、もう俺も商売やめないといけないってことか?」
 自嘲に似た笑いを含みながら、ユウシは戸を開けた。やつの言ったとおり、砂嵐は前より強くなってきているようだ。
「ユウシ、お前、どうしてサシの心臓が悪いと……」
「……感情が高まった人間に、目の前で息苦しそうにぶっ倒れられたら、誰だってわかるよ。じゃ」
 フードを下ろし、口元を布で隠す前、ユウシのこぼした声が、なぜか澄んで聞こえた。
「スラナ、お前が完全に今の医者になったんじゃないようで、安心したよ」
 俺はまだ、一人じゃないんだな――。
 そう思っているように、聞こえた。
「兄さん……。患者……って? 兄さんのとこに、あの人が来たの?」
 サシには、ユウシが来たことは話していなかった。ずいぶんと嫌っているようだったから。
「ああ……。話すか?」
「うん」
「よし、じゃあ片付け終わらせたらな」
 そう言い、俺はサシを片付けに戻らせた。手の中の小ビンを、上着のポケットに戻す。
 人を救う道は、一つじゃない、か……。
 俺は完全に今の医者になったわけじゃない。……確かにそうだ。もしそうなら、サシが心臓の病で苦しみ、死にそうになったら、迷わず静かな死を遂げさせようとする。だが俺がそうじゃない証拠に、俺はサシを少しでも生かそうと、あれをいつも持ち歩いてるんじゃないか。
 だがそれは……肉親だからじゃないのか? いや、違う。あの時ほぼ無意識に、俺はあれを患者に与えていた。じゃあ、俺は…………
「兄さん、終わった! 話聞かせて! あのユウシって人、兄さんのとこに来て何してったの?」
「じゃあ、教えてやるから座ろう」
 今考えるのはよそう。考えたところで、すぐ答えが出るような問題じゃない。
「ユウシとな、手術ってやつを、やったんだ……」
 あの人間は死んでしまった。でも、自分は命を生かそうとしたんだという話を聞かせるだけで、なんだか誇らしかった。
 それは、俺の中にユウシと同じ “生かすこと”の悦びが、いまだ残っている証なんだろう。


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