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ほら穴の彼【3】

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 休日の朝、れいが着替えて一階へ降りようとしたとき、なにやら一階が騒がしいのに気付いた。大声で話しているわけではないが、せわしなく歩き回っている気配がしたのだ。
 降りてみると、父も母もいつになく真面目な顔で、出かける用意をしている。
「お父さんお母さん、どうしたの? どこか出かける予定なんかあったっけ」
 まだ眠い目をこすりながられいが言うと、二人とも驚いたようにれいを見た。
「れい、お前は家にいるんだ。お父さんたちが帰ってくるまで、出かけたりするんじゃないぞ」
「な、何? どうしちゃったの? 何かあったの?」
 すくみ上がるような剣幕でないにしろ、れいを心配させるには十分な焦りようだった。
 二人は何も言わず、さっさと家を出ようとしている。
「ねえ! なんで教えてくれないの?」
 たまりかねたように、父が振り向く。
「れい、あれほど言ったのに、お前は……」
 一瞬、理解できなかった。だがれいはすぐに思い当たった。
「お父さん……」
「隣の諒斗君が教えてくれたんだ。ほら穴の前の草むらで遊んでいたら、誰かが来るので隠れた。そしたらそれはれいお姉ちゃんだったと。ほら穴の一つに入っていって、しばらくしたら出て帰ったと。それに、コンビニの袋を提げて……」
 見られていた、とれいは愕然とした。多分、あの日会った後、諒斗君は不思議がってあの付近で遊ぶようになったんだろう。それで、見られてしまった。
「何しに行くの、お父さんたち!」
「警察が来てはうるさいからな、みんなで今度こそ出て行ってもらうよう言いに行くんだ」
「あたしも行く!」
「だめだ、お前はいるんだ」
 れいを家に残し、二人は足早に家を出て行った。父は、ほら穴の浮浪者に恐喝でもされて、食べ物を買わされていたと思っているのだろう。
「違う……。何もやってない」
 れいは二階に駆け上がると、机から家の鍵を取り出し、鍵をかけるとほら穴へと走った。

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 れいがほら穴が見えるところまで到達したとき、すでにあの男のいたほら穴の周りには、人だかりができていた。入り口をふさぐようにではなく、まるで覗き込むように。
「町の人……ほとんど来たんだ」
 息を切らしながらも、れいはまた走った。町の人たちの後ろにやっと着いても、皆ほら穴に注目していて、誰もれいが来たのに気付いていない。
「誰かいるんだろう! すぐに出てくるんだ!」
 誰かの声が、ほら穴に入ると大きく響いた。微動だにしない暗闇が揺れたのは、一分ほど経ってからだった。
「あ……」
 あの男だった。初めて陽光の下で見る男は、あの暗闇での生活せいかかなり細かった。そのため、身長もかなり高く見える。ジーンズ生地の長袖のジャケットは袖が捲くられ、全て薄汚れていた。ぼろぼろになってはいないものの、上着以上に男のズボンは汚れていた。白と思わしきスニーカーも、泥だらけだ。頭はぼさぼさの長髪だったが、顔ははっきり見えた。
「あんたか、家の娘を脅したのは」
 れいの父の声だった。思わずそちらを見ると、見たこともない恐ろしい顔で、れいの父は男を睨んでいた。
「すまないが、俺は何も話を聞いていない。何の事を言っているのか、説明してもらいたいんだが」
「とぼけるな! 自分でやったこともわかってないのか!」
「俺は迷惑をかけないよう、ほら穴からは一歩も出ていない。それなのになぜ怒る」
「女の子が、あなたのところへ来てたでしょう。あれは娘なの。どうしてここを避けていた娘が、突然あなたのところに来るようになったの?」
 今度は母だった。
「……ああ、あの女か。突然入ってきたんだ。それで何を思ったか、俺に食べ物を持って来るようになった」
「お前が命令したんだろう」
「俺は食料を持っていた。別にいらなかったのに、勝手に持って来るんだ」
「嘘をつけ!」
「違う! お父さん違うよ!」
 今にも男に掴みかかりそうな父の前に、れいは飛び出した。ほら穴の男をかばうように。
「れい! 家にいろと……」
「お父さん、どうして勝手にそんなこと言うの? この人は何もしてない! したのはあたし!」
 殺気に近かった人ごみの雰囲気が、弱まったようにれいは感じた。
「あたし、つい興味がわいて入ったの、ここに。それでこの人に会って。この人は来なくていいって言ったんだけど、あたし心配で……。それで食べ物とか買って、この人に渡しに行ってたの。全部あたしがしたことなんだよ。だから、この人は何も、何もしてないのに……」
 感情の高まりのせいか、れいはわけもなく泣き出した。
「……いいやつだ。……れはこういう…………さがし……」
 れいが涙を流していたせいか、それとも男が小さく微笑を見せながらうつむき、呟いたせいか、男の言葉は、れいの耳には途切れて聞こえた。
「あんた……似てない?」
 れいがお世話になっているコンビニの松木が、一歩出て男の顔を覗き込み言った次の瞬間、空高くにまで響き渡りそうなクラクションが二度、続けて鳴った。
「な、なんだ!」
 その場にいた浮浪者以外の人間は、皆後方の道路を振り向いた。漆黒のクラウンが、ゆっくりとこちらに脇腹を見せ、停止したところだった。
「どうしたんです? こんなみんなでお集まりになって」
 運転席から出てきたのは、若い男性だった。スーツを着たその男に、れいは見覚えがあった。
「あ、あなたは」
「あれ、この前のお嬢さん。その後ろのは?」
 社長の息子だと自称した男性は、れいにどけろとも言わずに、ほら穴の男を首をかしげて見ようとした。
「……あ、あんただ! どこかで見たと思ったら」
 松木の驚いたような声だった。松木は息子を見て、そしてほら穴の男を見た。
「この男の顔、この人と似てるんだよ!」
 ほら穴の男を指しながら、息子に怒鳴り散らすように松木は叫んだ。周りがざわめき、そして松木の意見に同意する声が随所から上がった。それを見回し、小さくため息をつくと、次期社長は喧騒に負けないような大きさの声で、言った。
「ま、出てきたって事は、見つけたんですね? 兄さん」
「ああ」
 弟の言葉にしんとなったため、兄の言葉は小さいながらもはっきりと聞こえた。
「皆さん、僕に会った人は、僕が社長の息子だと言ってたと思います。だけど嘘だったんです、それ。確かに息子ではあるけれど、僕は次男。現に次期社長なのは、僕の兄である長男、つまり」
 元次期社長は、故意に間をあけたようだった。
「そこにいる、浮浪者のふりしてる人です」
 町人たちは一気に驚きの色に染め上がった。れいだけが事情を飲み込めておらず、ただ呆然とつっ立っていた。
「兄さんはね、本当に優しい人を探していたんだ。だからって、ここまでやることないと思うんだけどね。街で知り合った女性が、よっぽどひどかったらしい」
「偽善で世話をしてくれていただけなら、ここでいい機会だとばかりに、追い出す側に転じるような女しか知らなかったんでな。まさかかばうとは考えていなかった」
 暗闇で聞いた声とも、先ほどまでの無表情に近い顔ともかけ離れた、しかしどこか共通する声に、れいは浮浪者ということが架空なのを実感した。
「じゃ、決定かな」
「え、何が、ですか?」
 次期社長を振り見ていたれいは、弟の唐突な声にまた体を戻した。
「あなたが嫌じゃなければ、家に来てくれないかな。兄さんのお相手として」
「えっ……」
「外見を気にしないで、人を助けてくれるようなとこに、兄さん惹かれたんだよ」
「何をしでかすかわからない浮浪者のとこに通うのも、どうかと思うがな」
「兄さんが手出ししなかったから、彼女信じたんでしょ?」
 しばし兄弟の話が流れ、れいは弟の言葉を理解することにした。家、とは、やはりあの豪邸だろうか。相手、ということは……
「自分より他人のほうが心配だなんて言うやつが、いるとは思わなかったよ……」
 その言葉が形になったように、れいの肩に手が置かれた。
「来てくれるか?」
「……あたしでよければ」
「そんな謙遜の言葉は初めて聞いたよ」
 振り向いたれいが見た、男の初めての表情は、あの態度とは遠くかけ離れた優しい笑みに満ちていた。


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