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血竜【2】

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 はるか遠くから届いた音のように、〈812〉は金属の扉が閉まるのを聞いた。それが半分眠っていたせいだと気付くと、急速に意識が戻ってきた。規則正しい足音が近づいている。音が消えたので、起き上がって廊下を見るが、そこに足音の主はいなかった。どうやら別の場所の囚人に用があったらしい。
「面会だ」
 声はすぐ隣から聞こえた。
「へえ。珍しいじゃねーか」
 新たな足音が、響き始めた。堂々としている看守とは違う、少し緊張しているような雰囲気がする。それも、隣まで来て止まった。
「……事は私たちにとっていい方向に向いています。あなたは、ここでは〈811〉だそうね。〈811〉、あなたは近々、刑を受けることになります。今の状況から、そうなることは確実です。今まで生き長らえた運も、ここまでのようですね」
 ――女か。殺人鬼を目の前にしているためか、声に覇気はない。だが、見下しているのはわかった。
「へえ、刑確定寸前にお目見えとはな。つーかどうしたよその口調。そんなに他人扱いしたいわけ?」
「黙りなさい。人目も構わず殺すような、殺人鬼に言われたくありません」
 焦ったように、早口になった。〈811〉にとって、この女はどうやら知り合いらしい。
「あんな……自分のものじゃない血で、服を汚して、それでも構わず殺して……。姿を見ただけで凶悪に見えるような人間は、あなた以外見たことはありません。あんな、血に飢えたような怪物みたいに……!」
「まあいいさ。どうせ執行の場にも来るんだろ? そんときに言いたいこと言わせてもらうさ」
 女はしばらく動かなかった。二つの足音が少しずつ小さくなるのを聞いて、〈812〉はできるだけ柵から顔をのぞかせ、後姿を見た。老年に差し掛かったように見える女だった。
「もう俺に味方なんていないのさ。たとえ肉親でもな」
 ベッドにどさりと倒れこむ音が聞こえた。薄い壁に背を預け、〈812〉は薄汚れた床を凝視していた。


「おーい、冥王」
「冥王? 何だそれ」
 いつものノックと共に、〈811〉は〈812〉を冥王と呼んだ。
「お前のあだ名だよ。俺にさっぱりつけてくれねえから、俺が先につけた」
「どうして冥王なんだ?」
「お前の、小さそうだから」
 何のことかと一瞬思考が止まったが、すぐに理解して〈812〉は苦笑いを浮かべた。
「おいおい、よしてくれよ。勝手な思い込みはしないでくれ」
「知ってるか? 最近冥王星は、太陽系の仲間から外されたんだぜ。今は準惑星って呼ばれてる」
「ますますひどいじゃないか」
 心底楽しそうな、〈811〉の笑い声が響いた。
「ああ、あとな、お前本当に冥王に見えるから」
「本当の?」
「大人しそうに見えるやつは、大抵おっかねえ。だからさ」
「それを言うなら自分のことだろ、〈811〉」
「ははっ、そりゃそうだな」
 ひとしきり笑った後、ため息と共に壁が鳴った。〈811〉が寄りかかったらしい。
「そろそろか……。ここの死神も年貢の納め時らしい」
「怖いのか?」
「いいや。つまんねえなあ、と思ってよ。一回ぐらい、娑婆に出てみたかったよ」
〈811〉にしては珍しい、静かな声だった。
「どうやら俺の死神能力は、お前には効かなかったらしいな。跳ね返されて自分に戻ってきたみたいだ」
 声が大きくなった。薄い壁のすぐそばから、こちらに向かって話しているのだろう。
「すまないな」
「いいんだよ。でもよお、あだ名がつかなかったことだけ、心残りだな」
 ――よく笑っていられるな。〈812〉は怖かった。自業自得とはいえ、己の寿命を待たずに人生を終わらせられるのだ。法という文章に操られた、全くの赤の他人の手によって。
 ――俺の友人は誰もいない。自分が一番初めに、この世界から旅立つんだ。死んだら、一人なのではないかと。その孤独感が、〈812〉を死の恐怖へといざなっていた。


「〈811〉、時間だぞ」
「はいよ」
 久しく聞かれなかった、牢が開く音。外を見ると、数人の看守らしき男たちが、隣の独房の前に固まっていた。
「死神も、とうとうここから消えるか」
「そんなに嬉しいかよ」
 嫌味のように、〈811〉は言った。ぼさぼさの頭が、かすかに見えた。
 再び扉が閉められたとき、看守の一人が冥王を見た。
「〈811〉、お隣さんがお見送りだぞ」
 横顔が、冥王の目に映った。しかし伸びきった髪のおかげで、表情はうかがえない。
「義理堅いな、冥王。でもまあ、嬉しいぜ」
 口元が、笑った。冥王を見た看守は、なぜ冥王なのか、不思議がっているようだった。
「さあ、行くぞ」
 看守も〈811〉も、冥王に背を向けたその瞬間、冥王は叫んだ。
「血竜!」
 訝しげに振り向く看守たちに遅れて、〈811〉もそれにならった。横顔ではなく、はっきりと真正面から冥王を見て。
「血の、竜……。血竜。あんたは血竜だ。あんたのあだ名だよ。血竜」
 廊下は、しばし静寂に包まれた。それを破ったのは、先ほどよりも大きな笑みからこぼれた、血竜の声だった。
「それを待ってたよ、冥王。あんたは義理堅いからな。いつか言ってくれると思ってた。血にまみれた竜。最高じゃねえか」
 看守に促され、血竜は再び歩き出した。しかし数歩と進まないうちに、血竜は半分冥王に顔を見せる形で、声を張り上げた。
「先に行くよ、冥王! 血竜はあの世で待ってるぜ!」
 この建物の扉が閉まる音は、普通なら悲しみを誘うだろう。だが、冥王はそうはならなかった。むしろ、彼を後押ししてくれるエールにさえ聞こえた。
 ――あいつが、待っている。冥王の中に、もう孤独も、そこから来る恐怖もなかった。
 血竜がいるなら、退屈はしないだろう。


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