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嫌な香り

 呼ばれたから来てみれば、部屋の中は暗闇だった。視覚情報が極端に少ないせいか、同時にあの嫌な臭いが鼻を突く。自分の顔が歪んだのがわかったが、気を取り直して、たった一つ明かりを放っている、ある物に目を向けた。その正体は、シンプルなラックに置かれたパソコンモニターだ。その画面を、頬杖をついて眺めているやつこそ、俺をここに来させた張本人だった。
「おい、真っ暗じゃねえか。電気つけろよ」
「ならカーテン閉めてよ。外に丸見えになるだろ」
 楽しそうに話す声に少しいらついたが、俺は黙って後ろを通り過ぎ、ベッドに上がってカーテンを閉めた。すぐに引き返して、ドアの横にある電気のスイッチを入れる。
「うわ、まぶし」
「目ぇ悪くすんぞ、こんなあなぐらみたいなとこで」
 おもしろがっているのか、大げさに手をかざして明かりを遮っている。自分も、短時間ながら暗さに慣れてしまったらしく、目を細めてしまった。
「早かったじゃないか」
 ゆっくりと手が下ろされると、そこにはあいつの――優貴の顔があった。どうがんばっても女にしか見えないが、それでも俺にとっては見慣れたものだ。丁寧に化粧まで施した友は、明らかにからかいを含んだ笑みをつくった。
「そうか? いつも通りだと思ったんだけどな」
 そう言うお前こそ、準備万端じゃねえか。と言いたくなるのを、めんどくさくなりそうだったのでこらえた。普段なら、この撮影用の服を着てパソコンをいじるようなことはしないからだ。ぎりぎりのところで派手だ、と思わせない程度に、耳や腕、胸元にまでアクセサリーが輝いていて、フリルのあしらわれたドレスは、金持ちにしか買えないような値段がつけられた、精巧なアンティーク人形が着ていそうなものに見える。その生地に朱色の和柄を使っているせいか、優貴の黒い髪は染められることなく、逆に映えているようだった。
「ちょっと待ってて、ここ直したらすぐ撮ってもらうから」
 そう言ってまた画面に向き直ると、優貴の手はマウスとキーボードには触れず、机上に置いてあった小さな箱と、ライターを取り上げた。
「おい、タバコ一本分も待つのはちょっとじゃねえぞ」
 口元が引きつった。俺の口調に棘を感じたのか、優貴はきょとんとしたようにこちらを見てから、手元に視線を移した。その時にはまた意地悪い笑顔を浮かべていて、慣れた手つきで白い棒に火をともしている。
「急いで吸うから」
 タバコを口にやった手が、マウスに落ちた。何度かボタンが鳴った後、もう片方の手がタバコを取り去り、唇の間から煙が流れ出てくる。その量がいつもより多いように見えたので、俺は少しだけ安堵した。
 それにしても、いつまでたってもこの臭いには馴染めない。馴染まないほうがもちろんいいんだろうが、こう頻繁に来る場所で、毎回気分が悪くなるのはきついものがある。優貴も優貴だ。換気扇のあるキッチンで吸えばいいのに、窓も開けないでほぼ一日中吸ってやがる。文庫本ほどある灰皿は、底など見えるはずがない。この美人がヘビースモーカーだなんて知ったら、ファンはどう思うのか。それ以前に、こいつが男だと知れたら、どうなるのか。
「いつまで立ってんの? そこにでも座ってろよ」
 口を開けば、男だとわかる。しかしこいつは、あいさつ程度なら簡単にごまかせるほど、女みたいな声を出せるんだ。
「さっさとしろよ」
 俺は渋々ソファーに座った。優貴の背中が見える位置だが、ソファーが柔らかすぎて沈んでしまい、若干見上げているような気分だ。何もしないで待っているのももったいないと思い、俺は脇に置いていたカメラのバッグを開け、機材の準備を始めた。
 カメラをそっと隣に置き、立ち上がって三脚を取り出し、組み立てる。本格的な写真撮影なんて、優貴がこんなことを始めなければ、絶対にやることはなかっただろうな。ちらりと優貴を振り返ると、もうそろそろタバコが終わりを迎えそうだった。相変わらず視線は画面に釘付けだが、まあすぐ終わるだろう。サイトの手直し程度なら、三年目ともなれば大したことはないはずだ。
(……なんだかな)
 ふと手を止めると、俺は何をやっているんだろうとため息をつきたくなった。嫌なわけではない。この部屋の淀んだ空気は嫌いだが、断るほどのものでもなかった。ただ、女に化けた友人を写真に撮る、という行為は不思議な気分だ。
 ファインダーを覗けば、目の前にいるのはあの須藤優貴という人物に違いないはずなのに、時々全くの別人に見えることもあった。俺自身、こいつが男なのか女なのか、わからなくなるようだった。
「ん」
 思案の渦から現実に引き戻したのは、背後から俺を包み込んできた温かさだった。首辺りに重さと、さらさらした髪の毛の感触。そして腹の上で遠慮がちに結ばれたのは、真後ろにいる人間の両手だ。
「何してんだ」
「いいじゃん」
「よくない」
「恥ずかしいんだ」
 今度は声を立てて笑った。でもほんの微かにだ。
 半ば呆れて、そうじゃない、と言い返そうとすると、ゆるい拘束が解かれた。突然抱きついてきたやつに、いつまでも背を向けてはいられない。三脚を倒さないように軽く抑えて、俺は優貴に向き直った。
「それとも気持ち悪かった?」
 俺の答えを聞く間も作らず、優貴は言った。数センチばかり低いところにある目は、どこか悲しげだった。
「いや、そういうわけじゃ……」
 一瞬本当に女に見えた。普段の優貴と重ねようとすると、間髪入れずにその面差しは明るくなった。ふざけた様子もからかいもない、笑顔があった。
「そっか。安心したよ」
「何が」
「嫌われたかと思って」
 さすがにこの程度で絶交はしないぞ。そう思って、写真を撮ろうという合図に軽く体を押すと、俺の腕をなぞるように優貴の腕が伸びてきた。
「お、おい優貴」
 つかんだ俺の肩を支えに、爪先立ちでもしたのか、ぐっと優貴の顔が近くなる。顔も引けないまま、優貴の唇がそっと押し当てられた。俺の口の、すぐ端に。
「タバコ、嫌いなんだろ」
「……ああ」
 眉をしかめてしまったのは、俺の嫌いな臭いがすぐそばまで漂ってきたからか、優貴の行動に嫌悪を感じたからか。それとも――
 身を離すと、優貴はすたすたといつもの撮影スペースに歩いていく。その途中、足を止めたかと思うと、こちらを見て言った。
「なあ」
「なんだよ」
「タバコやめたら、してもいい? 本気で」
「……そう簡単に臭いは落ちないだろ」
「落ちたらいいんだ」
 五枚は撮影できる時間を消費して、俺は答えていた。ひどく情けなく、消え入りそうな声で。
「好きにしろ……」
「顔赤いぞ、義広。かわいいな」
「うるせえ」
 乱暴につかんだ三脚の脚が、フローリングにこすれた傷をつけた。


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