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サザンクロスの見下ろす町

 ――大丈夫? ほら。
 そんな感じのことを言ったんだと思う、多分。眼前に伸ばされた手を、岩を掴んでいた右手で握り返す。細かい砂の粒を感じて、汚れていたことを申し訳なく思った。しかし相手は力強くぐいと引っ張ってくれたので、真理絵の視界は一気に開けた。
 そこに広がる空間を把握する前に、足も岩場から平らなコンクリートに落ち着けさせた。ところどころに出っ張った角でこすったせいで、びりびりとする痛みが傷の存在を主張してくる。そんな痛覚にも気が回らないくらいの光景が、彼女を取り囲んでいた。
 来てよかった。真理絵は、心に居残っていた後悔が充足に染め上げられていくのを感じた。白い雲も遠慮したのか、真っ青に済んだ空。これは日本と同じだ。砂浜から突き出すように伸びた、堤防の孤島みたいな場所に上がっていた真理絵は、真下に海面を見ることができていた。これは日本とは違う。鮮やかな水色の海。後ろを見下ろせば、白にも見える砂浜に寄せる波は、ほとんど透明だ。ここには白波なんてものはないのかもしれない。
 ポケットに入れていたデジカメで、彼方の水平線を写す。海風が涼しい。そういえば、こんなに暑いのにどうして自分は汗をかいていないんだろう。ほぼ真上にある太陽の光はまぶしく、肌はじりじりと焼かれるようだ。でも、べたべたするあの嫌な湿気は感じない。出かける前に見た天気予報では、軽く三十五度はいっていたはずなのに。
 さらさらの腕をなでて、真理絵は母の話を思い出した。母は昔エジプトに旅行したことがあって、向こうの暑さは湿気がなくて、とても過ごしやすかったって言ってたっけ。湿気のない夏なんて想像もできなかったから、一体どんな気候なのかと謎だったけど、このことだったんだ。純粋に、ただひたすらに、痛みさえ伴う熱を受ける。
 ――写真、たくさん撮った?
 サングラスをかけた女性が声をかけてくる。言ったこと全てを理解したわけじゃないけど、この状況だから、そういう感じのことを言ったんだと思う。
 彼女――ヴィオラは、ホームステイ先での唯一の家族だ。子どもどころか小さな孫までいて、今日ここに訪れるまでの足も、彼女の息子家族の車だった。さすがに年齢を聞いたことはないが、今日まで一緒に暮らしてきて、おばあちゃんみたいだ、と感じたことは一度もなかった。いつも金髪を結わえていて、ダーツの同好会に参加し、乗馬クラブのメンバーらしきものにもなっているらしい。とても活発な人だ。
 肯定する意味の言葉を短く返すと、ヴィオラはにっこりと笑った。つばの長い帽子をおかげで、目元には大きく影が差している。肌は焼けているのだろうが、それでも真理絵よりずっと白かった。
 堤防の向こう端には階段があり、二人はそこから砂浜に戻った。柔らかくて細かい砂が、サンダルと足の隙間に入り込んでくる。初めこそ不快感があったものの、次第に慣れてしまっていた。
 大人ほど大きくはない、悪く言えば甲高くて耳に刺さる声が、風に乗って真理絵の元に届いた。聞き覚えのある声だ。見れば、真正面から子どもが一人、裸足で駆けてくる。
 ――遊ぼう!
 真理絵のすぐ前でつんのめりそうになりながら止まった子どもは、そう言ったのかもしれない。彼女の手を一度だけ引っ張り、彼はまた走って引き返して行った。向こうには彼の兄とその両親がいる。
 よく転ばないで走れるなあ。あっという間に彼らの元に着いた子どもは、フリスビーを持った手を大きく振った。兄弟はさっきも、あれを投げ合って遊んでいたのだ。
 艶やかなブロンドがきらめき、その下の屈託のない笑顔を見ると、こちらもつい顔が綻ぶ。
 来てよかった、と真理絵はまた思う。言葉が通じるだろうかと一番不安になったのは、彼らを相手にした時だった。日本でさえ子どもと話す時は、ゆっくりわかるようにと心がけていたのだ。しかしここでは、まず自分が正しく話せているかが怪しい状態になる。
 そんな心配は、実際全く必要なかった。特に小難しい会話をせずとも、遊びたい盛りの彼らの勢いに乗れば、あとは行動すればいいだけだったのだ。
 真理絵が早足で来るのを見て、子どもは待ちきれなかったのかフリスビーを投げた。海のほうではなく、広い砂地に向けてだ。真理絵は足を速めたが、彼女よりさらに離れた方向へ投げられていたので、当然追いつきはできない。兄――と言っても小学生ぐらいにも満たなかったが――のほうが、すとんと砂に落ちた円盤に先に到着し、真理絵に向けて投げてくる。
 それはさすがに彼女の足元にまでは飛んでこなかったが、弟の頭を悠々と越えていった。真理絵は大股で進み、ちょこちょこと円盤を追いかけてきた彼より先に、それを拾い上げる。
 ――早く投げて!
 ほんのちょっぴり残念そうな顔をしていたが、すぐに目を輝かせ、彼はおそらくそう言ってきた。兄は先ほどと同じ辺りに立っていて、弟のほうも同じ方に、しかし兄よりやや離れたところで足を止めた。真理絵は小声で「いくぞー」と呟き、ちょうど二人のあいだを通り抜けるよう、フリスビーを投げた。
 高く飛び上がったそれを見上げながら、同じ髪の色の兄弟がはしゃぎながら砂浜を走り抜ける。なんだか映画を見てるみたいだ。でも今の自分は、彼らと同じ陽を浴びて、海風になでられて、潮騒を聞いている。そして現実であることの証拠に、二人の少年は振り返ると、また真理絵にフリスビーを投げて寄越してきた。


 一旦家に帰って軽く食事を済ませ、真理絵とヴィオラは車に乗った。今の今まで熱せられていた車内は、べったりとした水分がないにしても熱気がこもり過ぎていた。大して効果がないのはわかっていたが、その空気を払いのける仕草をしてしまう。運転席に乗り込んだヴィオラは、そんな真理絵に微笑をこぼしていた。
 車が道に出ると、どきどきと胸が高鳴った。立ち並んだ家は平屋しか見当たらず、そのおかげで広い空は鮮やかなオレンジ色が染み出ているように見える。それも次第に紺色になり、黒になり、これから見に行く炎の花が、一番輝く色に変わっていくのだ。
 ヴィオラの車は、学校に行くのにもよく通った太い道路を走り、スーパーらしき店の駐車場に止まった。そこから歩いて数分で、会場になっている川沿いの公園に着く。
 川と言っても、真理絵には港にしか見えなかった。もちろん港でもないから、船もなければ埠頭もない。突き出した桟橋もある。ぷかぷかと浮かんでいるのは、どうやらペリカンらしかった。
 しかしその川はとにかく大きいのだ。海外の人は日本の川を滝のようだと言った、というのを何かで読んだことがあったが、確かにこんなにもゆったりとした、海のような川を川と認識して生きていたら、真理絵が見慣れた、音さえ立てる川などは簡単に滝になってしまうだろう。
 芝生と歩道で整えられた公園は、それらが埋め尽くされるほどの屋台と人で賑わっていた。でかでかと描かれているのが「お好み焼き」とか「くじびき」ではないだけで、屋台というのはどこも似たような造りなんだと思い知らされる。
 慣れた足取りですいすいと進むヴィオラを、真理絵は必死に見失わないようにしていた。二週間以上もここに滞在しているものの、アジア人の顔つきということで妙に視線を感じることは特になかった。しかし個人的には、こんなところで迷子にでもなったら怖くなってしまいそうだった。平均身長が日本よりも明らかに高いここでは、ちょっと歳が上に見える人であっても、たとえ女性でも見下ろされる。
 夕日の色も薄くなるこの時間帯。前を歩く金髪が止まった。誰かと話している。なるべく人にぶつからないように早足でたどり着くと、彼女と話している人物が目に映った。知らない男性だ。小太りでそんなに背が高くないおかげで、ヴィオラが余計に細く見える。
「あ」
 その男性に隠れるように立っていた女の子を見て、真理絵はとぼけたような声を出した。彼女も真理絵に気付いたらしく、目をしばたいてじっと見つめてくる。その表情が綻んで、「先輩!」と叫ぶのに時間はかからなかった。
 後輩の伽耶という子だった。ということは、この男性は伽耶の滞在している家の父だ。その彼とヴィオラは、彼女が真理絵のほうに来ようとしているのを見て、そっと道を空けてくれた。小走りにやって来た伽耶は、嬉しそうに話しかけてくる。
「先輩も来てたんですか!」
「うん。道路にもたくさん車停まってて、びっくりしちゃった」
 平日はこの町の高校にあるプレハブを借りて、真理絵達語学研修生だけで授業を受けている。その内容のほとんどは英語でしか行われることはないが、休憩時間や昼食時はみんな日本語で雑談する。だから別に、日本語を固く禁止されているわけではなかった。
 それなのに、流れるように出てくる母国語は話していて気持ちがよかった。思っていること、感じている事を、的確に相手に伝えられる。何より相手も同じ国の人だから、文法を堅苦しく守る必要もない。
 日本じゃ、道端で外国人同士が彼らの言葉で喋っているのを見ると、一体何を話しているんだろうとよく気になっていた。今は自分が、その気にされる側になっていると思うと、真理絵はなぜか気分が上ずった。
 お互いの家のことや、休日にどこへ行ったかなどを聞き合っていると、ヴィオラがぽんぽんと肩を叩いてきた。名前を呼ばれると予想していたので、真理絵には少し意外だった。きっと久しぶりの会話で、熱中していたのかもしれない。
 ――そろそろ行きましょう。早めに場所をとらないと。
 徐々に増えていく人だかりと、空の半分以上が黒に変わっているのを見れば、なんとか拾い上げられた単語から推測しても、そんな感じのことを言ったんだろうとわかる。真理絵は返事をして、伽耶に別れを告げた。
「それじゃ伽耶ちゃん、また」
「じゃ、先輩、明日学校で。さようなら」
 数歩歩いただけで、伽耶と男性はすぐ見えなくなってしまった。ヴィオラは人ごみを抜け、川沿いの遊歩道に出る。
 川辺、と言うより、やはり海のようだった。川と公園のあいだは、コンクリートの港のように段差がついていて、みんなそこに腰掛け足をぶらぶらさせている。
 二人分の隙間は、案外早くに見つかった。先に陣取っていた人達に割り込むような形になったが、こういう行動をとるにも、真理絵は嫌悪感をあまり感じないようになっていた。ここでは遠慮し過ぎるのは、逆に失礼なのだ。
 腰を下ろし一息つくと、ヴィオラが川底をライトで照らし、見てごらん、と真理絵を促した。車の鍵を開けるのに、手元を明るくするためのペンライトだ。おそるおそる前かがみになって覗き込むと、比較的浅い川の中で、たくさんのカニが歩いているのが見えた。目を凝らすと、石に見えていたものもカニがじっとしているだけだったりもする。
 と、風船が当たったような衝撃を背中に感じる。そんな軽い感覚だったのに、真理絵は反射的にへりをつかむ手を握り締め、「わっ」と声まで上げていた。
 ヴィオラはそれを見て、からからと楽しそうに笑った。彼女がからかい半分で押してきたのだ。過剰な真理絵の反応に、笑わずにはいられなかったのだろう。
 真理絵は直後こそむっとしたが、どこか子どもっぽい彼女の振る舞いは、今に始まったことではない。つられるように破顔してしまう。自分は今、純粋な明るい感情だけで笑えている。そう感じるほど、ヴィオラの笑い声は屈託がなくて、温もりがあった。
 川向こうに見えていた巨大なクレーンの影も、すっかり闇に塗りつぶされた。工業地帯らしいその地からの電灯が、川面のゆらめきを映し出している。真っ黒な細長い影が水上を動いているのは、花火を上げる舟らしい。真理絵は、ささやかな波の揺らぎと真っ黒な夜空を、何度も交互に目に映す。何もない空をずっと見上げているのもつまらないし、川を眺めている時に一発目が上がって、見逃してしまうのももったいない。
 ヴィオラはペンライトの明かりを頼りに、腕時計の文字盤を確認している。その頻度か短くなっていったので、真理絵は開始時間が迫っていることを察した。彼女から外した目線は迷わずに、星も現れ始めた虚空へと泳いだ。
 数え切れない密集した光の粒が見事な円を描いたのは、まさにその瞬間だった。水も人も、目の覚めるような明るい緑で染め上げられる。開花とほぼ同時に響いた爆音は、腹にまで轟きはしなかった。
 続けざまに赤、ピンク、青の花火が咲き誇り、落ちる火の粉は小さくなって暗闇に飲み込まれていく。しだれ柳を思わせるものも上がり、ぱちぱちと音を鳴らしながらしばらくのあいだ空中に留まっていた。
 海の向こうの地面を歩いたのは、真理絵にとっては今が二度目だった。しかし一度目は、今のように生活に密着した過ごし方はしなかった。学ぶための旅行、という建前もあったせいか。彼らと間を置いたところに立っていて、彼らの様子をテレビを見るみたいにただ眺めているようだった。買い物もしたし、現地の学校にも行った。それでも、自分はそこにはいないような、ふわふわした感覚が消えなかった。
(そっか。花火って日本だけのものじゃないんだよね)
 今年も八月になったら、家族で花火大会を見に行くんだろうな。去年見たその花火に比べると、眼前のそれは小ぶりだった。ほとんどが単色で、二色混ざってたりするものは少ない。
 なんか物足りないな。花火が一旦おさまり、真理絵は見物客を見渡した。ほとんどが家族連れなのはやっぱり同じだ。大人も子どもも、食い入るように空を見つめる表情はやわらかく、こちらまでつられて口角が上がってしまう。
 その内の一組が、すっと立ち上がった。何か買いに行くのかな。真理絵は最初そう思ったが、全員川に背を向け、立ち去っていってしまう。それを追いかけるように、他の人達もぞろぞろと屋台のほうへと歩いていく。
(えっ、もしかしてこれで終わり?)
 慌ててヴィオラを振り返ると、彼女も立ってズボンについた汚れを払っているところだった。始まって三十分も経っていないというのに。
 腰を上げた真理絵は、ヴィオラに一つ聞いてみようと思った。知らない人と積極的に話せなくて、しかも相手は外国人というせいもあって、真理絵はいつにもまして自分から話題を持ちかけようとしていなかった。些細なことでいいから、彼女と話をしてみたい。その衝動的な思いが消える前に、真理絵は異国の言葉で意思を紡いだ。
 ――花火、あまり多くないんですね。
 失礼なことかもしれなかった。言ってから、遠まわしに自分の国を誇っているつもりかと思われそうだとも感じた。しかしヴィオラは、いつものはきはきとした声で返事をしてくれた。
 ――そう? 日本は花火を作る人がいるんでしょう。こっちじゃそうもいかないんでしょうね。
 ああ、そうか。新年を祝う花火ならまだしも、そう大きくない町で立派な花火を見られるなんてことがないんだ。
 ――日本ではそんなにたくさん見られるの? 私が見に行ったら、このお祭りの花火じゃ満足できなくなっちゃうかもね。
 話が広がった! 真理絵は嬉しくなって、日本の花火について知り得ることをたくさん教えた。お祭りのおまけではなく、花火のためだけの行事があること。ハート型や、キャラクターを模して作られた花火が増えていることを。
 来てよかった。真理絵はまたそう思った。誰でも知ってたはずの事柄が、当たり前だがここでは未知の事象になる。知識をひけらかすわけでもなく、真理絵はただ伝えることに夢中になった。結局花火の話は車に戻っても続き、家に着く頃やっと終わりを見せた。
 ――マリエ、今日は綺麗に見えてるみたいね。ほら。
 車から降りたヴィオラが、車庫から外に出て空を見上げていた。彼女の隣について振り仰ぐと、ぽつぽつと星が輝く漆黒が広がっていた。その中から、ヴィオラはある一箇所を指差す。
 ――わかる? 右下に一個星がついてるけど、十字架の形をした星があるの。
 近くに大きな星が見えなかったので、真理絵はすぐそれを見つけることができた。十字の頂点を表すように星が四つ、その右下に一回り小さい星がちょこんとついている。
 ――ええ、見えました。
 ――あれが国旗にも描いてある星座なの。小さいけど、綺麗でしょう。
 本当に小さかった。冬のオリオン座や夏の大三角形に比べたら、無視されそうなぐらいに。
 でも、綺麗でもあった。こぢんまりとしているから、その分光が凝縮されているような。北斗七星よりもデネブよりも輝かしい。
 真理絵はしばらく何も言わなかった。いや、言えなかった。なんの変化もしないのに、どうしてか星を見続けるのは飽きなかった。その星の並びが、日本に帰ったらもう見られないものだと思うと、余計に目を離したくなくなってしまう。
 たかが星座を見ているだけなのに、この気持ちが湧き上がってくるのはどうしてなんだろう。
 ――わたし、ここに来られてよかったです。
 答えの型にはまっていなかったその台詞に、星明りとわずかな電灯の下、ヴィオラは目を細めてゆっくりと微笑んでくれた。


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