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しろがねの月

 手すりから身を乗り出すと、向こうの暗闇から風が吹いてきた。橋には街灯が等間隔で輝いているけれど、それよりも静かで明るい、きれいな満ちた月が辺りを照らしている。
 暗闇が――海が立てる波音が聞こえる。夜の街や家に現れる暗闇とは違って、海の暗闇は怖くない。人が造った建造物の暗闇にだけ、恐怖があるんだ。全てを生み出した海は、恐怖なんか持っていないんだろう。
 空を見上げた。月は、豪華さを象徴する色ではなく、清楚さを感じさせるようなそれで、銀色で私を見下ろしている。そんな月を見て、私はふと思い出した。
 あの子に出会ったのは、確かこういうきれいな月をここで見た帰りだった。

 街灯があまりないその道路を通らないと、私は家に帰れなかった。その光から逃げるように、その子はそこにうずくまっていた。
「あれ……」
 本当に暗いところに、その子はいた。私が見つけられたのは、偶然だったのかもしれない。
 小さかった。一目見ただけで大きな怪我だとわかるような怪我こそなかったものの、薄汚れていたりなんだったりと、健康そのものでないことは確かだった。こんなに小さいのに。
 小さいといっても、もう十分普通に歩けるほど成長した子だった。歩調を緩めて近づくと、その子は殺人鬼でも見つけたかのように、私を見た。目だけは、本能的な恐れからか、爛々と光っていた。
「大丈夫……。私は何もしないよ」
 その子の後ろは塀で、小さな背をそこに押し付けて、私から距離を取ろうとした。その場から逃げ出さなかったのは、そうする気力さえなかったからなんだろうか。
 手を伸ばせば届くところまで私が近づいたとき、その子は覚悟したように私に横顔を向け、目を閉じた。
「ほら……。なでるだけ」
 頭にそっと触れてみた。一瞬だけ震えたけど、動きも何もしなかった。
 近づいたことで、その子の体がよく見えた。やっぱり小さい怪我がかなりある。私は真っ先に、やっと最近取り上げられるようになった虐待について思い出した。痩せた体にたくさんの傷。この子は追い出されたか、逃げ出してきたんだ。原因が虐待だったなら。どちらにしろ、解放されたことに違いはない。だけど、このままじゃ…………
「……おいで」
 頭をなでていた手を、そっと腕に移す。やっぱり震えるだけだ。声も何も発せないほど、ひどいことをされたのか。
「こんなとこにいたら、このまま死んじゃうよ。私の家へおいで。豪華なのはないけど、何も食べないよりましだから」
 聞き取れているのか、聞き取れても内容を理解しているのか、私にはわからない。いつの間にか目は開いて、私を見ていた。さっきのような禍々しい光はない。
「暴れないでね。……はい」
 私はその子をそっと抱き上げ、そしてゆっくり歩き始めた。私の服をつかんだりはしなかった。腕の中で、じっと大人しくしていた。

 家といっても、私はアパート住まいだ。こんな子を連れ込んだら怒られそうだけど、この子はやはり声を出さない。我ながら自分はいやなやつだと思った。喋らないからいても大丈夫、なんて思ってるんだから。
「ちょっと待っててね」
 タオルをフローリングの床に敷いて、そこに座らせた。冷蔵庫から牛乳パックを取り出し、小さめのコップを持って戻ってきた時には、その子は横になっていた。少ない体力を振り絞ってまであそこでうずくまっていたのは、人に見つからないようにするためだったんだろうか。
「大丈夫? ほら、牛乳あげる」
 こんなぼろぼろの状態だ、全てにおいて弱っているのは誰が見てもわかる。コップに牛乳を注ぎ、その子の口に近づけ、そっとかたむける。
 やっぱりこぼれた。顎を伝って、白の滴がタオルに落ちる前に、私は隣に持ってきておいたティッシュでふき取った。その時、その子ののどが少し動いたのを見た。飲んでくれたんだ、と思った。少し嬉しかった。
「がんばって。きっとよくなるから…………あ!」
 もう一度飲ませようとしたところで、私はあることに気づいた。
「馬鹿だ私、弱ってるのに冷たい牛乳飲ませて……!」
 慌てて立ち上がって、私はコンロに向かった。ただでさえ冷えてる体に、また冷たいものを流し込むなんて。取っ手つきの小さい鍋に、コップに入れていた分とパック内の牛乳を入れて、火をつける。いくら助けたいからって、もうちょっと冷静になるべきだった。
 ほどよく温まった牛乳を、またコップに注いで、その子にあげた。温かくしたからだろうか、さっきよりも飲んでくれたような気がした。
 温めた分の全ては飲まなかったものの、コップ一杯分の牛乳を飲むと、その子はまた横になった。やっぱり危ないんだろうか、と嫌な考えがよぎったけれど、その子は気持ちよさそうに目を閉じた。眠ったんだ。そのまま死に向かうような、嫌な雰囲気はなかった。

「あなたの名前は……そう、ツキ。空にある月」
 普通に「月」と発音するのではなく、どちらかというと「ツ」にアクセントを置くような形で、私は言った。不思議そうな目で、月と名づけた子は私を見上げた。
「これからはあなたのこと、月って呼ぶから。前に名前があったかもしれないけど、私にはわからないしね」
 月は男の子だった。だからといってやんちゃではない。まだ体力は完全じゃないし、怪我も治りきっていない。それでも、あの日から約五日たった今では、私の部屋を探索し回っている。やはり、声は出ないようだった。
「ねえ月。なんで月って名前にしたか、気にならない?」
 リビングの真中に座って、歩き回る月を見ながら、私は呟いた。
「あなたに会う前に、きれいな満月を見たの。今まで見た中で一番じゃないかなあ。それに、あなたのその――」
 私の声は、唐突なインターホンに遮られた。驚いたが、私以上に月のほうが驚いていた。恐怖の色が浮かんだ顔で、音のしたほうを、ドアを見ている。
「あれ、いないのかな。おーい」
 今度は、声と共にノックだ。月は明らかに怖がっている。
「ごめん月、ここにいて」
 素早く月を抱きかかえ、トイレに入れた。そっと戸を閉めて、再びなったインターホンと同時に、ドアを開けた。
「あ、いたんじゃん。どしたの?」
「え、どしたのって……。何が?」
 友達だった。どこかに出かけるような格好だ。後ろだけ見たら男に見られそうなファッションのその友達は、この辺りに来てからの、初めての女友達だ。
「え、まさか忘れちゃったの? へー、珍しい」
「忘れ……あ!」
 突然記憶が呼び出された。そうだ、月に会う二日前、私はこの友達と――和恵と、街に行く約束をしてたんだった。
「さっぱり待ち合わせ場所に来ないから、もしかしてーと思って。あ、大丈夫、気にしてないよ。あたしのほかの友達なんか、こういうことしょっちゅうだから」
 素のままの笑顔は、本当に気にしていないと言っているようだった。
「ごめん、和恵……。ちょっと今手が放せなくて。予定入れてたのに、ホントにごめん」
「いいってば。突然入る予定ってすぐ終わんないのばっかだからね。また新たに予定組むさ。じゃ、今日は帰りますか」
「次は必ず行くから」
「ありがとっ」
 階段を下りていく和恵に、私はドアから身を出して叫んだ。和恵は芝居がかったように、人差し指と中指だけを立てて、私に向けて小さく振った。器用なウィンクも忘れずに。和恵の姿が消えてから、彼女にだったら月のこと、話してもよかったんじゃないかと思った。
「月……。もう大丈夫だよ」
 そっとトイレのドアを開けると、月は隅のほうで小さくなっていた。
「月、ほら、私だよ」
 下手に近づかないように、手だけを伸ばす。それをじっと見ていた月は、ゆっくりと隅から這い出し、私の手に顔を近づけた。
「ほら、もう大丈夫。おいで、ご飯食べようか」
 やっと私の腕の中に収まった月を抱き上げ、そのまま冷蔵庫を覗いた。お米は避け、今はシーチキンをあげている。初めて固形物を上げたとき、ご飯よりもシーチキンが気に入ってしまったらしく、他のものを食べようとしなかった。弱った体にいいものとは思えないけど、何も食べないよりはよっぽどましだ。
 月は手を使えない。椅子に座らせると、両手をテーブルに置いた皿のわきにのせ、シーチキンを食べる。水は、私が飲ませるか、やはり食べ物と同じようにするしかない。
 月はトイレも覚えた。彼の高さではドアを開けられないので、いつも開けっ放しにしてある。便座のふたも同じ状況だ。
「月……。おっきくなってね」
 私は毎晩、隣で眠るようになった月に話しかける。まるで自分の子供のように、私にとって月の成長は嬉しいものだった。

 月は大きくなった。怪我もすっかり消え、やせ細っていた頃が嘘のように。私が歩くたびに、月はついてきた。なので、よく間違えて足を踏むこともあった。それでも月の声は出なかった。痛そうな表情をするだけ。
 月は外を出歩くようになった。私が近場に用がある時だけだけど、一緒に外に出るのだ。そしてアパートに帰ると、すでに月はドアの前にいて、私を見つけると嬉しそうな顔をする。近くに公園もあるから、多分その辺りで遊んでいるんだろう。
 でもある時、いつものようにドアの前にいる月の様子が、おかしくなった。初めて会った時のようにうずくまり、体が少し震えていた。
「月……? どうしたの? 寒いの?」
 その夜は寒くはなかった。それなのに月は、冷蔵庫にでも入れられたみたいに、震え続けた。
 ドアを開けてもいつもみたいについてこない。私はタオルで月をくるんで、中へ入れた。
 下手に薬はあげられない。小さくしたとしても、大人用の薬は大人用なのだ。熱があるわけではないみたいだったので、私はタオルを何枚かかけてあげることしかできなかった。

 その夜、夢を見た。
 真っ暗なところに私はいて、少し距離を置いたところに人がいた。でもその姿はおぼろげで、性別はおろかどんな格好をしているのかさえわからなかった。それでもなぜか、私はぽつりと呟いていた。
「月?」
「ありがとう。俺を助けてくれて」
 声が聞こえた。その人影から聞こえたと言うよりは、周りの闇から、あるいは自分の中から響いてきたような。
「こんなによくしてくれて、本当に嬉しい。俺が今震えてるのは、自分のせいだ。できるならあなたの手を借りずに、自分で治したい。あなたの手をわずらわせたくないから。でも、もしあなたが……」
 そこで言葉は切れた。
 今まであった明かりが消えたように、人影は消えた。夢も終わった。

 目覚めて床を見ると、敷いたタオルの上に、月は寝ていた。昨日より震えは小さくなったようだった。
「月……。あれ、あなただったの?」
 小さな声で話しかけたから聞こえなかったんだろうか。こちらに背を向けたまま、月は眠っていた。

 一旦回復したように見えたけど、月の様子は悪くなるばかりだった。こうなったら、病院に連れて行くしかない。震えの原因がわかるかもしれない。そしてそれを抑える薬ももらえれば。
 明日、病院に行こう。そう決めた夜、私はまた月の夢を見た。多分、月の夢だった。
 夢の中で、私は自分の部屋にいた。外は夜だった。閉めてあったカーテンは開いていて、ベランダに続く大きな窓の前にいた。
 自分の意思はないまま、私は鍵を開け、大きな窓を開けた。
 次の瞬間、部屋は消え、また暗闇が広がった。かと思うと、一瞬白く光るものが視界を覆い、消えた。声が響いた。
「ごめんなさい。でも、あなたを悲しませたくないから」

 朝、私は生まれて初めて飛び起きた、という行動をした。布のはためく音。カーテンだ、と気づいた時には、私は起き上がってベランダに進んでいた。そして音を立てるカーテンをつかみ、力任せに開ける。
 窓が開いていた。
 戸締りは癖づけていた。なのに大きな窓は、外からの風と光を遠慮なく室内に取り込んでいる。
 月が寝ていたタオルは見なかった。もうそこに月はいないと、わかっていたから。
「なんで……いなくなったの? 月……」
 一筋、頬を涙が伝った。それ以上は流れなかった。

 一際冷たい風で、私は我に返った。相変わらず、空には丸い月が浮かんでいる。
 月は、死んだんだろうか。手すりから手を離し、深呼吸した。そして満月に背を向け、家に帰るのにあの道を通った。
 何の気もなしに、月がうずくまっていた塀の上を見た。
 何かがいた。
 きらきら光って見えるそれは、最初きれいな物が置いてあるのかと思った。でも物が塀の上にあるわけがない。ゆっくりと近づく。
「あ……」
 月からの光を受け、流れる水のようにきらめくそれをもった――
「月…………」
 銀色の毛並みを輝かせたその猫は、月ではなかった。目の色も、顔つきも違う。それよりも、月が猫だったということが思い出されていた。
 だって月は、あまりにも人間のようだったから。猫にしてはかなりめずらしく、人間と同じようにトイレに入ったから。人間のように椅子に座ったから。人間のように私にくっついて眠ったから。だから、銀の毛並みだということも、あやふやになっていた。
 銀色の猫はとんと道路に下りると、反対側の塀の向こうに消えた。
 あれは月じゃない。でも、あれは月が生きたという証拠だ。月が生きたから、月の血が受け継がれ、その血があの猫の中で目覚めた。私は勝手にそんなことを考えた。
 きっと私は、月のことは忘れない。晴れていれば毎晩、私は月を思い出せる。

しろがねの月が、夜空に輝く限り。


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