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活ける屍

「どうぞ、こちらです」
 漂白でもされたのかと思うほどの白のドアは、音も立てずに開いた。部屋の壁も床も天井も、ドアよりは落ち着いてはいたが、見つめていれば目が痛くなりそうな白だった。
「彼女が第一号です」
 大きいベッドが置いてあるにもかかわらず、まだ余裕のある部屋は、空気が澄んでいた。だが森や山で感じるようなものではなく、かすかに消毒液の香りがする。誰でも病院を思い出すその匂いで、三坂翔一はここもそうだと思いかけたが、すぐに研究所だったと気付いた。
「……三坂さん? どうしました、気分でも?」
「あ、いや。大丈夫です」
 自分を案内してきた研究所の男は、自分より年上のようだった。眼鏡をかけているせいか、よけい研究者らしく見える。三坂の目がその男を捉えると、男は満足したように説明を開始した。
「彼女は被験者第一号にして成功者第一号。本名は鈴高岬といいますが、私たちは一号と呼んでいます」
「なぜです?」
「名前を呼ぶようにすると、いくら私たちでも情がでてしまいますからね。だから私たちはモノとして扱うようにしています。もちろん、慣れてなんていませんけど」
 含み笑いを隠すように、男は眼鏡を押し上げた。
「……それで、彼女には一体どういう処置を? それと、彼女は眠っているのですか?」
「おやおや、見当がつきませんかね。今まで動物たちで行ってきたことです。人間に対して行ったら、一番邪魔になるものを排除しただけですよ。二つ目ですが、彼女は起きています。ほら、目が開いているでしょう」
 実際、起きているように三坂には見えていた。だが普通の人間の“起きている”という状態と比べると、違いが大きかった。そのため、質問をやわらげたのだ。
「薬の副作用ですか? なんだかぼーっとしているようですが」
「薬? いいえ、私たちはそんな面倒なことはしません。手っ取り早くできる方法を行ったので」
 男は重ねてあった丸椅子を二つとると、一つを三坂に差し出した。もう一つは男が持ち、女の近くに座った。男の着ている白衣が、部屋の白と同化しているように錯覚する。
「彼女には手術をしたんです」
「手術? しかし、臓器に欠陥があったりすると、正確なデータが取れなくなるんじゃ」
「そう。あなたたちに必要なのは、人間の健康な、そろった臓器でしょう? ならそれさえ維持できれば、あとはいらない。いや、あると不便だ」
 研究者というのは、その手の話になると気味悪く見えてくる。三坂もそんな気持ちになり、横の男から少し椅子を離したいと思った。
「何かを取り去った、ということですか。でも一体何を?」
「簡単なことです。ここですよ」
 三坂が男を見ると、男は人差し指で自分の頭を突いた。
「脳をすっかり、取り去ったんです」
「の……」
 笑みさえ浮かべて言う口元に狂気すら感じる。もちろんいきすぎた妄想なのだろうが、三坂は自分の背を寒気が走るのがわかった。
「言葉に詰まるほど驚くことですか? 今どき脳手術は普通でしょう」
「で、ですけど……。脳を取ったんですか? 全て?」
「ああ、ちょっと極端でしたね。もちろん全てではありません。大脳の、全てを取ったんです。その他の小脳や脳幹は残してありますよ。残さないと生命維持と体の基本的生理機能がなくなってしまいますから」
「大脳の、すべて? じゃあ……」
 大雑把に言えば、この女性に意思はない。上半身だけ起こし、寄りかかるものはないのに首をだらりと傾げ、うつろな目は空を見つめ。
「そうそう、彼女のその目は義眼です。目と視神経だけ残しても、腐ってしまうだけですからね。いくら正当な理由を表に貼っていても、両目のない人間が見つかったら大騒ぎされますし」
 義眼、という言葉に一瞬反応したが、それ以外は三坂は男の話を聞いていなかった。
 確かに、ヒトの体で実験を試みたいと言ったのは自分の会社だ。だがここまでやるとは聞いていなかった。薬を使うものだと思っていたのだ。まさか、意思を消してしまうなんて。
「なぜ……ここまでやるんです? どうして……」
「手間を省くためですよ」
 まるで予測していたかのように、男は淀みなく答えた。
「今まで、薬品や化粧品の実験には、マウスなどを使っていたでしょう? 同じ哺乳類ですが、結果はわずかに違う。そのため何度か繰り返す。これからはそういう手間がなくなるんですよ。彼女のような人が増えれば」
「しかし、これでは殺人と同じだ! 意思がないのなら、人ではない!」
「いいえ、残念ながらヒトです」
 諭すような口調だった。
「指が五本あり、特殊な声帯があり、複雑な心臓が今も動いている。そして何より、彼女で実験を行った場合、きっと一度で必要なデータが揃うでしょう。それこそ、彼女がヒトである証拠です」
 それに、と男は何か言いかけた三坂をとどめた。
「彼女に心があった頃に、許可を取らせていただいていました。彼女自身が消えるのですから、もちろんご家族にも。彼女は承諾してくれたから、今こうなっているのです」
「なぜ、彼女はこうなることを許してくれたんです?」
 再び発言を抑えられるのを振り切るように、三坂は早口に詰め寄った。
「……彼女は重い病気でした。大脳内部に、悪性の腫瘍ができていたんです。手術で取り除こうにも、極めて難しい場所に。失敗して、植物状態になる可能性が高い。それなら、一息に植物人間になろうか、と言って、彼女はここに来たんです。ただ植物人間になるよりは、役に立つ植物人間になりたいとね」
「そんな……」
「そんなことあるはずがない、と思いますか? 彼女の手書きで、意思表示された手紙がありますが、ご覧になりますか? 彼女、私たちが強制したわけじゃないのに、自分から書くと言ったんですよ」
 三坂は何も言わず、視線を床に落とした。例の手紙は見なくていいという、無言のサインのつもりだった。男もそう受け取ったようで、リラックスしたように足を組んだ。
「他にも、彼女のような人が?」
 普通の人なら、話を切り出すのが嫌になるくらいの沈黙を、三坂は破った。
「ええ、手術を施したのはまだ彼女が初めてですが、提供者は増えています。皆、あなたがたが必要な臓器以外に、病を抱えている人です。ほとんどが脳の病ですがね」
 男はおもむろに立ち上がり、白衣を整えながら三坂の訪問理由を繰り返した。
「それで、彼女を連れて行くのでしょう? 私の助手と車をお貸ししますが」
「……考えさせてください」
 今日にでも、彼女をもらうつもりだった。だが、なぜかその意志が揺らいでいる。
「かまいませんよ」
 男は意外と素直だった。そっけない感触もない。
「では、入り口までお送りします」
 丸椅子はそのままに、三坂は男に続いて部屋を出た。研究所の出入り口である自動ドアの向こうは、青空と木々が広がっている。目が温かくなるような気がした。
「それでは三坂さん、また会いましょう」
 男は三坂を一瞥すると、白衣を翻して去っていった。

「失礼ですが、どちらから来られました?」
「えっ、と……」
 毛嫌いしている人間でも見るかのような視線に、三坂はつっかえてしまった。受付で固まってしまったら、まさしく不審人物になってしまう。
「ここは、この研究所の者に招待されないと来られないはずなのですが」
「ああ、高平さん、彼は私の招待だよ」
 奥から助け舟を出してきたのは、三坂を案内したあの男だった。
「なんだ、チーフでしたか」
「高平さんの目が怖いから、びっくりしたんだよ」
「あ、やっぱり? すいません、こういうところなんで、笑顔でいられないんですよ。無関係者は入れてはいけないので」
 高平と呼ばれた受付嬢は、顔を綻ばせた。
「連絡は受けてましたよ、三坂さん。裏に助手と車、それに一号も来ています。どうぞ」
 裏口から出ると、開けたそこにワゴン車が停まっていた。運転席側には、少年の面影が残る男が立っている。
「一号は乗せた?」
「はい」
 男がスライドドアを開けると、シートに力なく寄りかかったあの女が、シートベルトを締めて座っていた。
「彼の会社の場所はわかるね? それじゃあ三坂さん、助手席にどうぞ」
 三坂がドアを閉めるのを待っていたかのように、男が窓越しに三坂を見た。何か話したいことでもあるのだろうかと思い、三坂は手元のスイッチで窓を半開にした。
「きっと、あなたの上司は一号を気に入るでしょう。またここにあなたが来るかもしれません。そうなった時のために、私の名前だけ教えておきます。高本鶴也です」
「……ありがとう。できればもう来たくはありませんが」
「そうですか? 私としてはもう一度お会いしたいですよ。私たちの考えを理解してもらうために、長くお話したいですね」
 自然な動きだったはずなのに、その原因がまた狂気に思えてしまうのは、おそらく自分がこの男を――高本を、避けたいからだ。三坂は小さく頭を下げると、窓を閉じた。
 車が唸り声を上げた時、窓が叩かれた。まだ話すことがあるのかとスイッチに手をかけた三坂を、高本は手で制した。己の顔を隠すように、片腕を窓に押し付け、見上げるようにして発された高本の声は、三坂にはガラスのせいでくぐもって聞こえた。
「我々は死しても人に役割を与えることができます。三坂さんがそういった状態に置かれれば、きっとその偉大さがわかっていただけると思います」
 離れ際に残した笑みは、狂気そのものだった。


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