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もう一匹の転んだ猫

 礼子がそこに入ったとき、調度よく音楽が流れ始めた。少しテンポの速い、クラシック音楽だ。母に促され、靴を靴箱に入れると、礼子は長いすに座った。その背中側には大きなガラスがあり、向こうの様子が見える。女の人が二人組になって、踊り始めたところだった。
「きれいだね、あの人たち。長くやってるんだろうねえ」
 隣の母親が、独り言のように言った。礼子は何も言わなかったが、その通りだと思った。高く上に伸びた指先は、あんな美しい形を、指は作り出せるものなのかと驚くほどだった。足も、礼子には考えられないほど上がっていた。完全に九十度以上開いている。
 最初の女の人たちと同年代と思われる人が踊り終わると、今度は礼子と同年代の女の子が、踊りだした。やはり比べると劣ってはいるものの、礼子がしろ、と言われてもすぐには真似できないような、積み重ねが見えた。
「あれ、礼子と同じくらいの子たちもいるんだ。何歳からやってたんだろ」
 少女たちが踊りを終えると、今まで踊っていた人たちが、ぞろぞろとドアを開け、こちら側に入ってきた。椅子に座り、水を飲み始めた彼女たちの間を縫って、先生らしき女性が、礼子の方に歩いてきた。背は高めで、すらりとした体だ。単なる中年の女性には見えなかった。
「あ、初めまして。この間お電話をさせていただきました、三皿です。こちらが娘の礼子です」
「こちらこそ初めまして。見学しに来て頂けて嬉しいですよ」
 母親が切り出したその先生との会話を、礼子はしばらく横で見ていたが、ふと先生が礼子を見た。驚いた礼子の顔は、先生に見られたことだろう。
「こんにちは、礼子さん。歳はいくつ?」
「えと、十五です」
「どうしてバレエを見学しに来たのか、教えてくれる?」
「あの、ホントに……変な理由なんですけど……。その、テレビで見て、すっごくきれいで……。トゥシューズとかが」
 うまく理由を飾れないまま、礼子はありのままを語った。
「やっぱり、あなたもトゥシューズに憧れてるんだね。そうだ、亜依!」
 先生が顔をあげ、練習スペースの方を向いて叫んだ。少しして出入口からひょっこり現れたのは、礼子と同年代の少女グループの一人だった。
「何ですか? 先生」
 他の少女もそうだったが、彼女はレオタードの上に、顔の丸い、灰色のトラ猫の絵が描かれたシャツを着ていた。どこかで見たことのある、おもしろい猫だった。
「ちょっとこの子に、バレエについて少し教えてあげてくれない? いいことも、辛いこともね」
「え? いいですけど、発表会の練習は……」
「あとからでもできるでしょ? 大丈夫、これからのは通し稽古はやらないから」
「はい、わかりました」
 先生と入れ替わるように現れた亜依は、すとんと礼子の隣に座った。
「じゃ、お母さんそっちで練習見てるね」
「う、うん」
 礼子の母が離れたところに座りなおしたのを確認すると、亜依が話を始めた。
「んーと……。あたしが呼ばれたって事は、同い年なのかな?」
「十五です」
「あ、やっぱり。あたしも今十五なんだー。十六になるのは来年。あたし早生まれだから」
「そうなんですか? 私は今年十六になります」
「あら、少し年上だね」
 そう言って、亜依はくすくす笑った。
「じゃ、バレエのどこが気に入った?」
「最初は、トゥシューズです。あんなつま先で立つって、すごいなあって……。あと指とか、足とか、すっごくきれいで、スタイルもよくて……」
「ごめーん、あたしスタイル全然よくない」
「そ、そんなことないです!」
 礼子はとっさに叫んだ。しかし実を言えば、ぱっと見は自分と変わらないように見えた。だがやはり、どこか体つきが違うのだ。
「そーお? ま、そういうことにしとこっか。……んー、そいじゃ、バレエをやってていいこと、言うね」
「はい」
 亜依は片足を椅子の上に乗せて、それを腕でかかえた。
「まず、体が強くなる。あたし小さい頃、風邪引くたび熱出すような病弱者でさ。毎回病院行くほどだったんだ。でもバレエ始めたら、風邪は引くけど、自宅療養で済むようになって。ま、相変わらず走るのは遅いけどね」
 亜依はまた笑った。
「あとはーね……。そう、体がやわくなる。でもこれはちゃーんと柔軟体操してればの話。あたしバレエやって七年だけど、他の皆と比べるとすっごくかたい。お前ホントに七年やってんの? って思うくらい」
 亜依は話の最後に、必ず自分のことを引っ張ってきて、そしてそれを笑った。
「あとは……。やせて見えるきれいな筋肉が付くし、発表会に出れば、あがり症も少しよくなる……んじゃないかな。うん、バレエのいいとこってそんくらい」
「悪いところ……って、あるんですか?」
「悪いってわけじゃないけど、辛いことなら」
 先生もさっき言っていたな、と礼子は思い出した。
「そうだね……。その前に、このトゥシューズについて」
 ひょい、と亜依が横から出したのは、細長い布製の袋だ。中から出てきたのは、淡いピンク色をした、丸みをおびたバレエシューズ。
「これが、トゥシューズですか?」
「そう」
 新品でないのは、足首に巻きつけるリボンがよじれているのと、底の部分が汚れているのを見れば、すぐにわかった。シューズの先端も、汚れてぼろぼろになっている。亜依は一つシューズを持つと、床をつま先で叩いて見せた。コンコンと、いい音がした。
「じゃ、問題。トゥシューズはどうやってはく?」
「え? そのまま……じゃ、ないんですか?」
「ブブー。薄い布一枚で覆われてるだけの足先だよ? 指折れちゃうって」
 今まで履いていた練習用シューズを脱いで、亜依が言った。
「何か、別の物をはくんですか? 中に」
「まあそんなとこ。トゥシューズをはくときは、これをつま先にかぶせてはくの」
 新たにシューズ入れの袋から出てきたのは、青色をした、ゼリー状のものだ。つま先を全て包むような形をしている。これもゴミがこびりついて、長く使われているようだ。
「これをして、トゥシューズをはく。これ使う前は同じような形で、布製のやつ使ってたんだ。でもそれだとだんだん指が痛くなってきて。で、結局最後は皆これ使うの」
 これだとあんま痛くないんだよねーと呟きながら、亜依はトゥシューズをはき始めた。ふと、礼子は亜依の足を見て、違和感を感じた。
「あれ? 亜依さんの足、なんだか変……?」
「お、もしや気付いた?」
 シューズに足を入れたところで、亜依はまたそれを脱いだ。つま先を保護するパッドも外し、亜依は足を椅子にまた乗せた。
「ごめん、足見せてくれる? できれば裸足で」
 言われたとおり、礼子は靴下を脱いで、亜依にならって足を乗せた。
「これがね、トゥシューズをはく人の宿命。ちょっと大げさだけど」
 亜依の足は、曲がっていた。
 いや、詳しく言えば、足の指がまっすぐになっていないのだ。一番ひどいのは親指。小指の方に斜めに曲がっている。
「……外反母趾、ですか?」
「よく知ってるねー。そ、外反母趾。普通に生活してる人がなる理由は、あたし知らないけど、バレエでトゥシューズはくと、必ずなる。どうもトゥシューズの構造が、そうなってるみたいだね。先生なんかすごいよー。悪口じゃないけど、ぱっと見はね、人の足に見えないもん」
 再びトゥシューズをはき始めた亜依が、笑い声を伴って言った。
「美しさには裏がある。なーんちゃって」
 慣れた手つきでリボンを足の甲で交差させ、足首の後ろ側でねじってまた交差。それを二、三回したあと、足首の内側で結び、巻きつけたリボンの中に結び目を入れた。
「昔はねー、この結び目、踊ってるうちに出てきちゃって。恥ずかしいんだこれが。今でもたまにあるけど」
 もう片方もはき始めた亜依に、礼子は話しかけた。外反母趾、つま先の痛みと言った、隠されたバレエのことを聞いて、今まで抱かなかった恐怖のようなものが、礼子の中に広がっていた。
「あの……、嫌じゃないんですか?」
「ん? 何が?」
「足の指が曲がって……つま先も痛めて……。嫌になったりしないんですか?」
「んー、あるよ」
 答えはさっぱりとしていた。
「あたし今ね、指にテーピングしてるの。かなり前だけど、トゥシューズ脱いだらすっごく小指が痛いときがあって。見たら皮剥けてたんだ。いくらなんでもそのままタイツはいて、またはくわけにはいかないでしょ? だからテープ巻いて、保護してるの」
「そこまでして……」
「うん、トゥシューズって危険だよ。あのお姉さんたちだって」
 すでに戻って、トゥシューズで踊っている年上の女性たちを見て、亜依が言った。
「時々、トゥシューズで転んじゃうもん。つるって滑って。結構痛いんだよ。あと発表会が近くなると、別の場所で練習するんだけどね、そこの床が滑る滑る。あたしあそこで五回くらいこけたかな」
 やっぱりトゥシューズで、と付け加え、亜依は笑う。
「やめたいって、思ったこともある。でもやめられないんだ。やめたくない。足が痛くても、転ぶのが怖いって思っても、なんでかな。あたしはまだ下手くそなほうだし、上達してるのか自分でもわからない」
 いつの間にか、亜依は真正面の白い壁を見ていた。
「あたしって、特技ないからさ。得意なこと増やしたいだけかもしれない。いまだに回るときは、体と一緒に頭も回すから目回っちゃうし、足も後ろは上がるけど、前は九十度も上がらない。発表会のとき、笑顔も作れない。でもやっぱやめたくない。きっといいことがあるんだって、時々言い聞かせてる。ま、体やわいといいことはたくさんあるよ」
 今度は礼子のほうを向いて、亜依が言った。しかしまたさっきの状態に戻り、間を置いてぽつりとこぼした。
「……辛いよ、バレエ。続けないとわからない、この辛さは。でもさ、楽しいだけのものなんて、ないよね。よほどの天才じゃない限り。あたしらはほとんど凡人だから、辛い中に楽しさを見つけなきゃいけない。そして見つけたら、楽しさで辛さを隠しちゃうんだ。なんか卑怯に聞こえるけど、きっとみんな無意識にそうしてる。だって、好きで始めたバレエだもん。楽しいって思えなきゃ」
 最後の言葉を言うとき、亜依の顔はすでに上がっていて、笑っていた。
「なんか語っちゃったなあ。バレエ恐怖症になっちゃったかな?」
「いえ、とんでもないです。むしろそういうところも教えていただいて、なんだか心の準備ができた気がします」
「それなら嬉しいな。今入っても、多分あたしらと同じクラスにはなれないだろうなあ。経験歴でクラス分けされてるから。でも、入ったら教えてあげるよ、いろいろと」
「はい」
 返事をした礼子に笑うと、亜依は立ち上がり、練習スペースへと歩を進めた。
「じゃ、一通り話は終わりということで。練習行ってきまーす」
 ひょいと手を振り、亜依は部屋の端のほうへ歩いていく。踊り始める位置がその辺りなのだろう。亜依は体を曲げ、礼子の踊りを見ることにした。
 音楽が流れ出す。亜依が少し走り、大きく腕を動かしたのを合図に、踊りが始まった。
「亜依、パッセ低いよ!」
 先生の口から、バレエ用語が飛び出した。礼子は亜依を目で追っていたが、テンポの速い踊りだったため、どれがパッセというものなのかわからなかった。
「もっと足上げる!」
 今のは礼子にもわかった。片足を床につけたまま、もう片方を後ろに高く上げる。礼子には十分な高さに見えた。
 練習スペースを右に左にと駆け回り、亜依は中央付近でポーズをして、そこで音楽も止まった。終わったあとは先生のところへ行って、アドバイスを受けるのがルールらしい。亜依は走った後のような息遣いをしながら、先生の話を聞いていた。
「アラベスク、あれもうちょっと上げてほしかったな。だんだんよくはなってきているけど。あと、やっぱり時々、腕が下がってる」
「はい……」
 言いながら、亜依は汗をぬぐった。
「でも、指の形はいいよ。あれは崩さないように」
「わかりました」
「しばらくは出番が来ないからね。様子見てこっちに戻ってきて」
「はい」
 ふう、と大きく息を吐き、亜依がこちらに戻ってきた。
「すごいですね、亜依さん。あんなに長く踊って」
「あ、やっぱ長いもん? 踊ってると短いとか長いとかわかんないんだ」
 トゥシューズ袋の横にあったスポーツ飲料水のキャップを回しながら、亜依は答えた。
「そうなんですか。でも振りも全部覚えてるなんて……」
「――あたしさ、今こんなに息荒いけど、踊ってる間は全然そうはならないんだ。そこまで意識しないっていうか。もう踊りに熱中してる。終わってやっと疲れられる、って感じ。あと振りはね、体で覚えるから、覚えるのは大変だけど、そのあとは楽勝。発表会終わるまで、振りはちゃーんと覚えられるんだ。まあ、次の発表会のときに前の振りやれって言われたら無理だけど」
 スポーツドリンクを飲み込み、亜依は礼子に教えた。
「すごいですね、バレエやってる人って……」
「そんなことないよー、これは誰だってできることだもん」
 体をこちらに向け、亜依は小さく手を振った。礼子の目に、あの猫が映った。
「あ、あの……、これ、なんていうんですか?」
「ん? この猫?」
「はい」
 シャツを引っ張り、亜依は絵がよく見えるようにした。白い生地に、トレーナーを着て、二本足でスケート靴を履いて滑る、黒と灰色のトラ猫が描いてあった。
「これねー、ハワイで売ってる……なんとかキャットっていうの。かわいいでしょ。いっつもこういう顔なんだ。無表情っぽいけど、なんか愛嬌あるよね」
「本当だ。ぼーっとしてるだけみたいなのに、かわいいです」
「あとこれね、すっごい凝ってて、後ろ、おもしろいんだよ」
 小さい子供のようにはしゃいで言うと、亜依は礼子に背を向けた。というよりは、背の絵柄を見せるために。それを見た途端、礼子は思わず吹き出してしまった。
「ねー? おもしろいでしょ。前でうまく滑ってると思ったら、後ろではすっ転んでやんの。やっぱ猫にスケートは無理ってことかな」
 そう、後ろの絵は、ものの見事にその猫が、背から落ちるように転んでいる瞬間のものだった。
「あたしも転んだとき、こんな感じになってんのかな」
 猫と自分を重ね合わせたのか、亜依はいつもよりも長く笑った。
「で、話戻すけど、どうする? バレエ」
「……ちょっと、考えてみます」
「うん、それがいい。ここで答え出すのは難しいからね。ゆっくりしたほうがいい」
 そう言った亜依の目が、少し悲しげに見えたのは、礼子の錯覚だったろうか。
「でも、今日は全部見学します」
「どうも。できればあたしが踊るとこだけ見ないでほしいけどなあ」
 小さく礼子の笑いを取り、亜依は皆が踊っているほうへと戻った。
「どうするの? 礼子」
 音楽が始まった。そこにいたほぼ全員が集まり、踊りだす。
「うん……」
 生返事だとわかっていて、礼子は答えた。礼子の目はずっと、高さはまばらながら、完全に揃った動きを、追い続けていた。


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